「Tristan Murail The Complete Piano Music」ミュライユによる解説文

「Tristan Murail The Complete Piano Music」というCDの、作曲家トリスタン・ミュライユによる解説文。(演奏者はMarilyn Nonken)

 

このCDには詳細情報が多いので、何故か知らないけれども嬉しくなります。

演奏されたホールは、The University of Manchester Cosmo Rodewald Concert Hall (2003.10.12)。

ちなみにマンチェスター大学とは、オックスフォード、ケンブリッジに次ぐ、第3位の学力を誇るイギリスの国立大学です。

あとは、調律師の名前と電話番号まで書いてあります。

(調律師:Martin Locke  +44 (0) 161 975 6060)

 

この解説文もメモ帳に書き写した後、Google翻訳に入れて読んでみましたが、音楽的な説明が多いです。

しかし、意味があまりよく分かりませんでした。

どうも、倍音を構図に入れて作曲されているらしいです。

なお、これはもともとフランス語原文だったものが英文に翻訳されたものです。

Google翻訳の場合、仏→日よりも英→日の方が正確に訳されると思って、私は英文の方を選びました。(CDにはフランス語原文も載せられています。)

 

(本文)

 

Can one still write for the piano today?
Through the 19th century and to the begining of the 20th it was the emblematic instrument, the composer's confidant;
but has it survived the array of tortures inflicted upon it by the end of the 20th century?
After the clusters of Henry Cowell, the preparations of John Cage, the ornithological percussions of Messiaen, the electrifiel mantras of Stockhausen, and the various scrapings and pinchings of strings, what space is left to the imagination?

 

I think that my responce, at first subconscious, but gradually more and more clearly articulated, has been to return to the true essence of the piano, to its acoustic realities, and to ignore the trivialities of fashion as well as the weight of history.

 

The piano:
undoubtedly a percussion instrument, but above all a collection of vibrating strings, a vast reverberant chamber.

 

The vibration of piano strings is complex, the sound alive and varied as it resonates.
The resonating spectrum of the piano is particularly distinctive:
the low sounds especially are characterised by harmonic distortion (the partials of the sound are slightly too high in proportion to their harmonic rank).
This gives the piano a metallic and brilliant quality, lightly discordant in fact, 'inharmonic' to use a precise technical term.

 

After a performance of Les Travaux et les Jours by Marilyn Nonken, several composer colleagues expressed their astonishiment at having heard a 'microtonal', how do you write for question that is often asked of me is:
"Your harmonic writing is microtonal, how do you write for the piano, the perfect tempered instrument?"
My response is that although the piano is effectively tuned according to equal temperament because of our historical heritage, its sonorities, above all in the lowest register, are rich and complex, bursting with harmonics, and naturally untempered.

 

An illustration of the piano's acoustical reality can be heard at the end of Territoires de l'Oubli:
a low F and a middle register D sharp are repeated over and over;
from this F the seventh harmonic emerges clearly, a low D sharp.
This harmonic from the F excites the middle register D sharp which begins to vibrate strongly.
Even if in other contexts the phenomenon is less evident, this type of acoustic interference often modifies and enriches the colour of chords and allows the piano to work outside of its temperament.
My writing for the piano attempts therefore to rethink the interior of the piano - that is not to suggest that one plays inside the piano (all of my pieces only use the keyboard
in a traditional manner) but attempting to listen to the piano in the truth of its resonances.

 

'Rethinking' is not the same as starting from nothing, which is clearly impossible.
Comme un oeil...carries the influence of Messiaen;
the piece was written for the entrance exam of the Conservatoire National de Musique de Paris, therefore before my studies with Messiaen.
An allusion to the composer is found several years later and more consciously in Cloches d'adieu... written as a homage a little time after his death.
The 'bells' heard in the piece belong to the universe of spectral music and to that of Messiaen.

 

Estuaire was an attempt at appropriating the serial aesthetic for my own benefit;
I was trying to make it say something that it couldn't say:
coloured images, gestures, moving shapes.
The enterprise was paradoxical, and the result ambiguous, a transitional work.
After this i managed to completely liberate myself from the stylistic fashions of the day, with Territoires de l'Oubli, a piece truly written for the piano, by the piano.
The music is created from the way in which the instrument rings and resonates.
The virtuosic writing regers more to Liszt than to the composers of twentieth century.

 

La Mandoragore is suggestive of Ravel, through without borrowing or quotation;
but something ins the mood, in the overall colour of the piece makes one think of Ravel's Gaspard de la Nuit and Miroirs.

 

Les Travaux et les Jours is connected in a certain way to Territoires de l'Oubli, but listening to the resonances of the piano in a different manner.
The work also looks to resolve a formal problem:
9 independent pieces, but minutely interwined.
The music revolves around a B-C tremolo and is supported on the resonance of a low F which is only unveiled right at the end of the cycle;
as in Territoires de l'Oubli, allowing the loop to be closed... for now.

 

@2005 Tristan Murail (translated from the French by Sadie Harrison)

続き。


だからといって、私はユダヤ教徒にはならないでしょう。

また、キリスト教徒にもならないでしょう。

仏教徒にもならないでしょう。

なぜなら、この3つの宗教は、恐らくどれも正しいと同時に、どれも間違いが含まれているから。


人は死んだら輪廻転生をします。

しかし、転生先がこの世の地球とは限りません。

転生先は、人によって違います。

地獄(一つ下の階層の世)に行くかもしれませんし、天国(一つ上の階層の世、または違う惑星)に行くかもしれません。

それを霊界通信で書いたのが聖書やタナハやブッダのことばなのであって、どれもそれぞれ正しい部分があると思います。

一番いけないのが宗教同士で争うことなのは自明のこと。

例えば、本当のキリスト者は、古事記を信じる人にも寛容です。

なぜなら、あの優しいイエスさんなら恐らくそうしたから。

また、神様に委ねることは、そんなに間違っていることとは思えません。

というかむしろ、唯物論者のまま卑屈に生きるよりかは、霊的な意味でもずっとマシです。


解決策としては、SAM前世療法をやってみること。

そうすれば、自分の魂が何を求めているのかが分かりますから。

レヴィナス「全体性と無限」を読んでいて、早くも気づいたこと。

パスカルキニャールのエッセイは、「全体性と無限」の概念そのものだ。

キニャールレヴィナスを愛読し、それをもとにエッセイを書いているそうだが、内容がそのまんまだなと思った。

レヴィナスに忠実に書いているというか、レヴィナスに忠実に生きている。

 

「全体性と無限」講談社学術文庫版のp.86は、特に注目に値する。

まんまキニャールの文章みたいだ。

これは、第一部のB章にあたる。

 

(引用 p.86)

 

誕生に(自然に)含まれる既に成し遂げられたものを、記憶は取り戻し、反転させ、宙吊りにする。繁殖性は、死という点としての瞬間を逃れる。記憶を介して、私は事後的に過去に遡行して自分を根拠づける。起源の絶対的過去の時点では、受け入れる主体を有しておらず、それゆえ宿命としてのしかかってきたものを、こんにち私は引き受ける。記憶を介して私は引き受け、改めて問いただす。記憶は不可能性を実現する。記憶は事後的に過去の受動性を引き受け、過去を統御するのだ。歴史的時間の逆転としての記憶は、内奥性の本質である。死の不安は、足りない時間とまだ残っている時間の曖昧さのうちにある。

 

 (引用、終わり)

 

「死という点としての瞬間を逃れる」

→歴史的に考えると、人はただ全体のために何かを成し遂げるなどして死んでゆくだけ。それが、歴史の時系列で表わされるため「死という点としての瞬間」と書かれている。しかし、レヴィナスは、歴史(=全体性)として生きてはいけないと言っている。また、繁殖性は子孫が続いていくため、本当の意味での死ではないと言っているが、この場合の繁殖性は繁殖ではなく輪廻転生では?(魂の繁殖性だから)とも思ってしまった。

 

要約すると、「歴史(全体性)としての時間と、一つの魂としての時間は違う」→「世界から見た自分と、自分の中の記憶(魂)は違う。後者が本質だ」と言っている。

 

ちなみに、レヴィナスユダヤ教徒だが、正統派ユダヤ教には輪廻転生説が組み込まれている。

だからキニャールのエッセイでは、輪廻転生をほのめかす話がいくつも出てくるのか。

私は、ユダヤ教に輪廻転生があることを今グーグルで調べて知った。

転生 - Wikipedia

(引用)

転生(てんせい、てんしょう)とは、肉体が生物学的なを迎えた後には、非物質的な中核部については違った形態や肉体を得て新しい生活を送るという、哲学的、宗教的な概念。これは新生生まれ変わりとも呼ばれ、存在を繰り返すというサンサーラ教義の一部をなす[1][2]。 これはインドの宗教ジャイナ教仏教シーク教ヒンドゥー教の中核教義とされ、一部のヒンドゥー教宗派では転生を信じないが来世は認めている[2][3][4][5]。再生と輪廻転生といった信念は、ピタゴラスソクラテスプラトンなどの古代ギリシャの歴史的人物も持っていた[6]。またスピリティズム神智学エッカンカー教、および正統派ユダヤ教北米ネイティブアメリカンの深遠信念の中にも確認されている[7]

 

赤羽はAkabaneと書くと、Aka-bane と分割できる。

羽は英語でベーン。

もしや?と思ったのだが、baneは被害という意味だった。

羽はvane。

これらは湘南新宿ラインの電光板を見て思ったことだ。


風向風速計のことをエーロベンと言い、aerovaneと書く。

私は風力発電機が好きだが、エーロベンもなかなか好きなのだ。

えの木ていという喫茶店に行く途中に、横浜気象観測所があり、その入り口付近には実物のエーロベンが飾ってある。

触れてみると案外堅固に作られていることが分かる。

レヴィナス「全体性と無限 第一部 A章」のまとめ

レヴィナス「全体性と無限 第一部 A章」のまとめ

 

無限とは、「絶対的に自分の外部にある存在との関係」のこと。

本書では省かれているが、デカルト省察」によると、無限とは神の思考・神の存在のこと。

無限とは、絶対的に他(た)なるものである。

デカルトは、「人間は、無限者であり無限の思考をする神には近づけない」と言った。

しかし、レヴィナスは「デカルトの言う神的な(無限の)思考をすることは、人間にも可能だ」と言う。

(※レヴィナスは、ヤハウェ唯一神とするユダヤ教徒。)

他に抑圧されないためには、その無限の観念が大切。

他者というのは、私とは同じ世界にいながら、私とは違う部分を持っているもの。

他者を受け入れるのは大事なことだ。

しかし、他者に抑圧されることはいけないので、自我も殺さないようにするべきだ。

人間が自分の意見を持って、本当の意味で他者に接近するなら、抑圧からは引き離されるのだから。

 

 

 

(スマホのメモ)

 

全体性と無限 第一部 A

 

形而上学的欲望=全く他のもの・絶対的に他なるものを目指す(郷愁で家に帰りたいのではなく、未踏の地に行きたい)

 

他なるものの他性は、出発点にとどまって関係への入り口になること。

私=自我である場合のみ、同と他の項は絶対的に関係の出発点になる。

 

自我とは、自分に起こる全ての事柄を通過して、自らの自己同一性を再発見することになる存在。

 

他なるものとしての私は、一人の他者ではない。

 

自我は、世界のうちに場所と家を見いだす。

(住むとは、身を保つ仕方そのもの。)

自我の様態(手法)とは、世界内でわが家に存在することで滞在し、自己同定すること。

わが家とは、依存しながら、あらゆるものが私の手の届く所にある状態。

 

同の様態とは、所有する可能性(他性を中断する可能性)

同の自己同一化は、エゴイズムの具体性。

 

絶対的に他なるものとは、他人である。

君や私たちは、私の複数形ではない。

他は同と関わっているのに、同に対して超越的であり続ける。

同と他の関わりは、言語である。

言説において、私という(唯一的で原住する個別の存在者の)自己性にまとめられていた同は、自己から抜け出るのである。

他性が存在の中に生起するためにこそ、一つの思考・一人の自我が必要。

他性は、私を起点としてでしか可能ではない。

言説は、自我の実存のエゴイズムを断念することができない。

 

全体性の断絶は、この思考が範疇に逆らうとき。

思考とは、話すことに存する。

 

否定性とは家政的(エコノミック・孤独)な事実である。

例えば、労働は世界を変形するが、変形する当の世界を支えとしている。物質は労働に抵抗するが、労働は材料の抵抗から恩恵を受ける。抵抗は同の内部にある。

否定するもの・否定されるものは共に置かれ、体系を(全体性を)形成する。

富を欲する貧者は、自分の条件に逆らいつつも、各自の地平に結びつけられたままである。彼らが好む別の場所は、この地(現世)に由来している。

 

完全態を可能にする理念化は、限界への移行(超越)であり、絶対に他なるものへの移行である。

完全なるものの観念とは、無限の観念。

完全なるものの観念と無限の観念は、不完全なるものの否定には還元されない。(否定性に超越は無理。)

 

超越とは、私の現実とは無限に隔たった、ある現実との関係であるが、かといって、この隔たりがこの関係を破壊することはないし、同の内部の諸関係では生じるように、この関係がこの隔たりを破壊することもない。

 

認識する存在は、認識された存在の他性を尊重する。

しかし、観想はそれだけではなく、認識された存在の他性が消失するような形で接近する仕方をも意味する。

その際、認識する存在は、自分にとって他なるもので制限を加えてくるような何ものにも出会わない。

感覚(客観的性質+主観的情動)だけが、認識された存在から他性を奪う。様々な存在者が知解可能になるから。

存在論=諸存在の知解としての観想=他を同に連れ戻し、自由を奨励するその自由は同の自己同一化他によって疎外されることはない

観想は、自発性がもつ独断と恣意性を発見し、存在論的な営みの自由を問いただす。(恣意的な独断の起源に絶えず遡る。)

 

他人の異質性が私に還元され得ないことが、そして、私の自発性を問いただすことが、倫理の特徴。(倫理とは、他によって同が問い質されること。)

 

自由の究極的な意味は、同における永続性に由来しており、この永続性が理性である。

認識とは自由であり、この自己同一性を繰り広げていくこと。

認識とは、虚無を起点として存在を把握すること、もしくは存在を再び虚無に連れ戻すこと、存在からその他性を奪うことに帰着する。(照らすことで存在からその抵抗を奪うこと。)

他の同への還元が、他の無力化であり、他が主題もしくは対象と化すような、他が現れるような状態。

知こそが、自由の究極的な意味を保持する。

 

存在者が了解されるのは、思考が存在者を超越して、存在者の輪郭が示される地平で存在者に尺度を当てがう限りにおいてである。

(存在を起点として存在者に接近することが、存在了解であり、存在者を存在させる。)

 

自由は、存在への服従から生まれる。(人間が自由を手にするのではなく、自由のほうが人間を手にしている。)

 

主題化および概念化は、他の抑圧ないし所有である。(所有は他を肯定しはするが、他の自存性の否定の只中でそうするのだ。)

 

無限から分離され、無限を思考する自我に対する無限の超越が、無限の無限性そのものとなる。

(観念されたものと観念を分離する隔たりが、観念されたものの内実そのものをなす。)

無限は、絶対的に他なるもの。

超越者は、無限であるがゆえに、その観念から無限に遠い所に(外部に)ある。(対象を思考することではない。)

デカルトの無限の観念という概念が指すのは、思考する者に対して全面的な外部性を保ち続けるような存在との関係である。しかし、異邦人が無限に隔たっていることの、複雑な構造を記述しなければならない。

異邦人=他者

 

欲望と善性は、欲望を停止するような関係を前提にしている。

顔=他者が私の内なる他者の観念をはみ出しながら現前する様態

他人の顔は、私に委ねる形態的な像と、私の尺度やその観念されたものの尺度に見合った観念を、たえず破壊し、そこから溢れ出る。

他人の顔は、自らを表出する。

存在者は、存在のあらゆる覆いや一般性を貫通することで、自分の形態の中に自分の内実の全体を開陳し、最終的には形態と内実の区別を撤廃するのである。(主題化が言説に転換することによって達成される。)

 

他人は、こちらがその他人に対して抱く印象を、常に超えて出てくる。

その超えたものを自我の収容能力以上に受け入れることは、無限の観念を持つことである。(教えられるという意味でもある。外部からやってくる教え。)

 

無限の観念から溢れ出る無限は、私たちの内なる自発的な自由を審問する。

無限は、この自由に命令を下し、自由を裁き、自由をその真理へと連れていく。

 

歴史は、様々な視点の持つ個別主義から解放された存在が現出するような特権的次元ではない。(人間たちの間の関わり合いであるのに。)

人間が本当の意味で他者に接近するとき、人間は歴史から引き離される。

「Tristan Murail The Complete Piano Music」ピアニストによる解説文

「Tristan Murail The Complete Piano Music」というCDの、ピアニストであるマリリン・ノンケン(Marilyn Nonken)による解説。

ミュライユの音楽が、ラヴェルメシアンをオマージュして作られているなど、かなり重要な情報が書かれていました。

 

例えば、ミュライユの「Cloches d'adieu et un sourire...」は、メシアンの「Cloches d'angoisse et larmes d'adieu」をオマージュして作られています。

また、ミュライユの「Mandragore」は、ラヴェルの「絞首台」をオマージュして作られています。

さらに、「Comme un oeil suspendu et poli par le songe...」は、ミュライユが学生時代にメシアンの作曲クラスのオーディションに応募した作品であり、タイトルは父親であるジェラール・ミュライユ(Gérard Murail)の詩から採られたとのこと。

 

私はこれら解説文の英文をメモ帳に打ち込み、それをGoogle翻訳にかけて読みましたが、やって良かったと思います。

元のCDはこちら↓

Amazon | Murail: Complete Piano Music | Nonken | 室内楽・器楽曲 | 音楽

 

 

(以下、CD解説文の引用)

 

The piano is considered by some as an anachronism:
an instrument that remains almost exactly as it was in the nineteenth century, and which is still associated with the music of that era.
Yet the piano works of Tristan Murail show how the instrument can be revitalized and heard anew.
There is no question that his music belongs to the French tradition of Debussy, Ravel, and Messiaen.
In a radical sense, however his compositions chart an exploratory course, one that has led Murail away from traditional ideas have evolved, his ability to manipulate the piano's resonance has reached an unprecedented level of sophistication.
More than merely for the piano, Murail's works are about the piano.

Murail's musical vision transcends traditional notation.
His sense of musical time is not based on a tangible pulse or standard musical durations.
Rather, time's passing is measured in terms of how long things last:
how many seconds it takes to build a sonority, or how long it takes for that sonority to fade.
Intensity, too, is less about absolute dynamic than relative presence:
some figures are to be played just above the resonance, or just below it, or at a "quasi"-dynamic determined in context.
Thus, Murail has developed a highly personal notation, an idiosyncratic musical script mixing standard and graphic elements.
Although extremely specific, it leaves the player free to respond to the characteristics and tendencies of the instrument at hand.
His notation encourages sensitivity.
At the same time, despite the inherently volatile and fragile acoustic environment, it demands spontaneity.

Playing Murail's music is an unusually exhibitionistic experience.
Its tireless focus on the sound itself (how it is made, how it is sustained) renders the pianist uniquely exposed, as if captured by the lens of Lars Von Trier, or the pen of Michel Houellebecq.
His music reveals the ephemeral intercourse between the player and the instrumenet.
To me, there is an intimacy to these works that invites the audience, not only to listen but to become involved in the drama taking place.
While a great deal of "musical expression" is about finesse and disguise, Murail's music gains its power for what it reveals, without metaphor or pretension:
the mechanics of the instrument, the capacity of performer, and what, in all its flawed beauty, is performance in real time.

Comme un oeil suspendu et poli par le songe...was the audition piece Murail wrote to gain entry into the composition class of Olivier Messiaen.
Its title ("Like an eye, suspended, and polished by a dream...")is taken from a poem written by the composer's father.
In this ambitious student piece, with its lush harmonies, quirky rhythms, and sectional, cyclic structure, Messiaen's influence is unmistakable.
Yet Comme un oeil... is distinguished by its canny exploration of the piano's resonance, carafully manipulated through the use of extreme registers, strictly controlled dynamics, and unusual pedalings.
Already, Murail had begun to define a distinctive sound world.


If Comme un oeil... is a work of aspiration, Estuaireis one of contradiction.
More graphic in nature than its predecessor, its score reflects Murail's growing dissatisfaction with detailed makings for pedalings, attacks, dynamics, articulations, and resonances.
In terms of conception, however, it may be Murail's most traditional work.
While it does not follow a literary narrative narrative or program, its two movements - Pres des rives ("On the banks") and Au melange des eaux ("On the mixing of the waters") - are filled with poetic references to crashing waves, the undertow, the breaking surf, even the call of a foghorn.
Murail's writing for piano has been profoundly influenced by Liszt, and Esturaire may be his most Romantic composition.
Of his works for the instrument, it is the only one that seeks to evoke in such a visual, almost cinematographic way, and the only one whose score is filled with text and imagery.
As in his Couleurs de mer ("Colors of the sea"), written during the same period, the emphasis is not on form or process, but nuance and shading.

Inspired largely by the computer's work in electronic music, Territoires de l'Oubli ("Lands of the unknown") is without peer in the twentieth-century repetoire.
Perhaps in no other work can one hear the piano so transformed and its potential mined to such fantastic ends.
With an aggressive, near-obsessive focus.
Territoires unleashes not so much clouds as waves of sound.
These sonorities are immediately caught in the damper pedal, which Murail uses, by keeping it depressed throughout the work, to create a continually evolving fantasia of resonance.
In terms of acoustic phenomena, the "unknown territories" explores are landscape of pianistic impossibility and auditory illusion:
notes heard but never played (sympathietic vibrations), microtones (resulting from the interaction of the harmonics), and sonorities that emerge seemingly without attack or decay.
Depending on the nature of the material, the work's notation varies wildly.
Some pages of the score are highly specific, measuring time to the fraction of the second.
Other passages involve chance, including a cadenza in which the player must choose to repeat or omit certain materials, and a long passage in which the activities of the hands are not coordinated.

Cloches d'adieu et un sourire... ("Bells of farewell and a smile...") and La mandragore ("The mandrake") are tributes to Messiaen and Ravel, respectively.
Cloches d'adieu pays homage to Murail's teacher, and its final cadence quotes Messiaen's prelude Cloches d'angoisse et larmes d'adieu ("Bells of anguish and tears of farewell").
Legend maintains that the mandrake, a plant thought to have magical powers, grows in the shadow of the gallows.
La Mandragore regers overtly to Ravel's Le gibet ("The gallows") from Gaspard de la nuit, and, although it does not literally quote Ravel, it shares with Le gibet decisive elements of form, harmony, and ambience.
Written within a few years of each other, these two works share a certain elegance and restraint.
They are sparing in their use of figuration and ornament and almost frugal in their placement of single notes, chords, and passagework.
As Territoires de l'Oubli literally brutalizes the instrument (it is not unusual for strings to break during performance), La Mandragore and Cloches d'adieu are less physical, more cerebral and spiritual studies of sonority.

Les Travaux et les Jours ("Works and days"), whose title is taken from Hesiod, mirrors Territoires de l'Oubli in its expansiveness.
A series of nine interconnected, unnamed miniatures, Les Travaux et les Jors places new emphasis on from and development.
Each movement has its own shape and direction.
However, distinctive motivic fragments recur and are developed throughout, creating a sence of continuty, perhaps narrative.
The eighth movement retraces all that has happened thus far, offering a retrospective of perviously heard fragments against a transformed harmonic backdrop.
While this work features some of Murail's most contemplative writing (particulary the third and ninth movements), it is also unabashedly extroverted and confidant in its use of virtuosity:
brilliant passagework, grace-note figures, and arepeggiations.
At the final cadence, which comes to rest on an undulating B-C ninth, Les Travaux et les Jours nods to Territoires de l'Oubli;
this same distinctive interval, which begins and ends Territoires, plays a conspicuous role in both compositions.
Murail has spoken of Les Travaux as possessing a sense of resolution lacking from its predecessor;
yet, in many ways, the more recent may be the more enigmatic work.
I commissioned Les Travaux et les Jours from Murail with funds from the Fromm Music Foundation at Harvard University.

@2005 Marilyn Nonken

 

どうして引き寄せの法則があるのか?

どうして引き寄せの法則があるのか?というと、我々も神の一部だからだよ。

唯物論パラドックスは何度も説明したが、全ての物質は無から有が生まれないのに、この世は無から有が生まれて出来ている。

つまり、この世の構成素材は全て、神が作った夢か幻である可能性は十分にある。

で、神はどうやってその夢か幻かもしれないこの世を作ったかというと、初めに意思が生まれてからそうなったというわけだ。

その意思の力で、この世を作った。(引き寄せの法則)

その意味で、引き寄せは、究極的には真理だ。

だから、神に近い生き物である我々人間にも、ちょっとは引き寄せがあるのだ。


仏教は、初期の時点でもう引き寄せの存在に気づいていた。

だから、「ブッダの真理のことば」の一番最初に「ものごとは心を主とし、心によってつくられる」と書いてあるのだ。

あれは、「例え話としてそう考えて生きると幸せですよ」といった唯物論の類ではないので、中村元さんやその他のお偉いさん方の解釈は、間違っている。

ただ、そもそも仏教というのも完璧ではなく、あれは本当の底辺の人たちを救うことに焦点を当てて作られた、本当の神託のいくらか混じった、人間による作り話だ。(神による例え話かもしれないが。)

だから、あなたがもし引き寄せの法則を知ってワクワクテカテカするのなら、引き寄せの方を信じなさい。

ただし、ハマりすぎると強迫観念を生んで逆効果になるから、少しくらい悪いことを考えても悪いことは起こらないと思って生きること。