過去記事でスペクトル楽派について触れたけど、スペクトルってのは、「あるものの成分を取り出して、大小の順に並べたもの」だ。

もしくは、プリズムを通して見た光が、虹になって出てくること。(虹は光の長さ順に並んでいる。)

そして、スペクトル楽派はフランス発祥だが、フランス語のSpectreは幽霊や幻影の意味もある。

https://ksnovel-labo.com/blog-entry-1407.html

上記によると、アカシックレコードって、全てのカルマが保存されている所らしい。

要するに、アカシックレコードとは「何でも知っている知識の層」ではなくて、「どんな小さな善悪のカルマも隈なく保存している所」らしい。

ベンゼン環の構造は「直感」や「夢」での虫の知らせで思いついたらしいけれど、それはアカシックレコードにアクセスしているのではなくて、自分に憑いてくれている霊たちのオーディエンスが直感を送っているからだということだ。

民間伝承なども、このように霊たちの力によって歴史に残されていくという。

また、吉野圭さんは上記記事にて、

「カルマは無かったことにはならない。」、

「カルマが解消するのではなく、カルマの輪が閉じてその物語が終わるだけだ。」、

「今の日本は暴力やいじめの巣窟になっていて、その悪癖から抜け出さないと国自体が消滅する。」、

「中国は、民間人に限っては『道義の心』を思い出しつつある。」、

と言う。

参ったなぁ。

今、読み終わりそうな、フランシス・ポンジュ詩集 : 天山遯2爻

これから読む予定だった、ジャック・デリダ「シニェポンジュ」: 天風こう1爻

要するに、ポンジュ詩集は「早く逃げろ」と言い、シニェポンジュは「誘惑されるな」という。

つまり、どっちも読むなと。

ただ、易占いも、細かい事は完全に当たるわけじゃないんだよなぁ。

微妙だ。

ポンジュ詩集に関しては、ポンジュの書いた文章「だけ」は最後まで読もう。今日中に読み終わる。

その選択はどうかと占ったら風山漸5爻だった。(逆を占ったら火沢けい。)

OKサインだ。

ロバート・ラウシェンバーグは、作品の全部が良いとは全く思わないが、良い作品も残していることは認める。

ダダイスムのクルト・シュヴィッタースはすごく好きなんだが、ラウシェンバーグシュヴィッタースの後を引き継いで、より深みを増した作品を作ろうとしたのだろう。

それでも、ダダイスムはネオを付けてから、何か大事なものを失った気がする。

飛躍しきったものばかりを集めて熟成された芸術、といった感じだ。

 

例えば、ラウシェンバーグの屏風のペイントは、屏風だけが浮き出てしまっている感じがし、バランスの悪さを感じるため、嫌いだ。

日本美術を分かっていないから、ああいうことをしてみたくなるのだろう。

アメリカの寿司みたいだ。

チムー王国生贄まとめ

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/042800176/

チムー王国の生贄文化の跡が見つかったそうだ。


チムー王国エルニーニョ現象により気候変動が多かったため、農業用の運河も洪水により破壊され、海水温の上昇により魚が採れなくなっていたため、生贄を要したのだとされる。

そして大量生贄の起きた数十年後の1475年には、インカ帝国によって滅ぼされてしまった。

生贄は、熟練者の手によって確実に効率よく殺害された。

遺体の多くは東のアンデス山脈の方を向いていた。

当時、生贄になるということは名誉なことだった。

成人を生贄に捧げてもエルニーニョ現象が起きてしまうため、子どもを生贄に捧げたのではないか、という説もある。

 

上記記事では書かれていないことを述べると・・・

チムー文化は、太陽神(Jiang)よりも月神(SiまたはShi)の方が強いと信じていた。

なぜなら、月は潮と植物に影響があると考えられていたから、生活に密着する意味で重要だったのだ。

他には、おうし座の散開集団であるプレアデス星団のような星座も、作物を見守っているとされて信仰された。

チムー人はその他にも火星神(Nor)、地球神(Ghisa)、海神(Ni)を信仰しており、その神々に生贄を捧げることもあった。

生贄にされた者は「神格化する」と信じられていた。

インカ帝国は太陽を信仰したが(そもそもインカとは太陽神の化身のこと)、チムー文化は太陽を破壊的なものとして考えていたという。

ただし、チムー人は、自分たちの先祖は太陽の子だと信じていた。

月の神を崇拝する思想は、チムーが征服後にシカン文化を受け継いだから。

シカンとは「月の宮殿」のこと。

 

ちなみに私の師匠の家にはチムー王国の笛瓶がある。本物だ。

チムー王国はセックスに大らかな文化だったため、美術品にはよく男女がやっている姿が彫られている。

子作りの文化は、さぞ生贄には困らなかっただろう。

いくつか前の記事と、Facebook記事にて、フルクサスとネオダダをディスりましたが、別にフルクサスやネオダダが好きでそれに沈潜している人は、それでいいと思いますよ。

むしろ、そこら辺は私の知らない部分なので。

ただ、今のところ「芸術的に浅いな」と感じるのは、私の正直な思いです。

ナム・ジュン・パイクのピアノがYoutubeにありましたが、あれは音楽ではなく美術の作品だと思います。

それを音楽として聴いてしまうと、

「何もあんな派手な装飾をしなくても、プリペアドピアノのように音を変えたい部分だけを細工し奏すればいいじゃないか?」、

「普通の現代音楽としてはやや劣るから、装飾でカバーしているんじゃないの?」、

とか思ってしまいます。

 

それと、私が好きになりそうなスペクトル楽派の音楽ですが、あれに慣れてしまうとなんだかエヴァン・パーカーのフリージャズが騒がしく感じるようになりました。

ジャズって「麻薬」だったんだなと、我に返ることができましたねw

 

ってことで、フルクサスやスペクトル楽派を研究している大学時代の同級生たちよ。

あなた方ならこれら有名人を超えられるよ。

私はといえば、今は仕事の片手間にフランス文学を読んでいるレベル。

オルダス・ハクスリー「知覚の扉」→サルトル「嘔吐」

と読んで、主人公ロカンタンの「実存酔い」が、ハクスリーのメスカリン体験(芸術家は常にその統合失調的な状態を維持できる)にちょっと性質が似ているなと思っている。

この順番で読まなければ、嘔吐は難しかったと思う。

で、今は「フランシス・ポンジュ詩集」を読んでいる。

日仏会館で出会ったジャック・デリダ「シニェポンジュ」を理解したいからというのもあって。

また、シェリーの詩集にはあまり心が動かなかったから、ガストン・ヴァシュラールの「空と夢」は積読になっている。

つまり、私はこの程度だっていうこと。