十字架のヨハネ(サン・ファン・デ・ラ・クルス)の詩集、教文館で立ち読みした。
やはり、「孤独な鳥の条件」は入っていなかった。
ああいう虚無的な詩を期待したのに、読んでみれば愛だの光だのと歯の浮くような甘い台詞ばっかり。
ちょっと合わないなぁ、キリスト教の考え方ってのは。体が受け付けない感じ。
(あ、別にキリスト教の教えがしっくり来る信者の方はそのままでいいんですよ。私個人がそういう考え方だってだけですから。キリスト教徒には立派な人もいるし。)
ちなみに、過去記事で「バロック・古典派・ロマン派のクラシック音楽はキリスト教観が強い」と書いたんですが、実はもう一つ、フリーメーソンというのもありました。
しかし、過去記事に書いた通り、その時代、周りはみんなクリスチャンばかりです。
当然、作る曲はクリスチャンの影響を受けています。
あと、ベートーヴェンは有神論者であり、フリーメーソンの考えに傾倒していたことも知られていますが、その音楽も「上に人格神がいるから讃えよ」という設定だったりするので、シルバーバーチの霊訓のような「輪廻転生はある」、「我々は魂の勉強のために生まれてきた」という仏教的な発想がないんですね。
まあ、仏教は仏教で堅苦しすぎて、能やなんかもこれはこれであまり受け付けないんですが。
(ただし、能の言葉は美しいと思う。能はあまり知らないが、生涯に一度くらいは勉強したい。)
その、キリスト教と仏教のちょうど間を走っているのが、20世紀初頭のラヴェルとか、シェーンベルクの神秘探求とか、1960年代のサム・リヴァースのフリージャズだったりするわけです。
私はこっちの方が好きなんです。というか大好きですね。