吉野圭さんが、「人生は自分で計画を立てて生まれてくる」、「どんな人生でもあなたが決めて生まれてきた」と言っていたけど、それは半分は正解でも半分は誤りだと思う。

というのも、自分で全部計画を立てて生まれて来られるのは、吉野さんみたいな魂の優等生に許される特権であって、私みたいな普通の人は違うと思う。

きっと、私みたいな普通の人の場合だと、まず「いかにしてカルマを解消するか」という課題があって、その上で高次霊(または神)と一緒に計画を立てて生まれてくるのだと思う。

自分で計画を立てて生まれて来られるなら、多くの人たちはずっと勝ち組の人生を歩むはず。

私がいじめられて育ったのは、単純に、前世のどこかでいじめをやって生きていたからだと思う。

なぜなら、幼少期の私はいじめる側の気持ちがよく分かったから。

だから、自分に悪い事が起きた時、それは前世で悪い事をやってしまったんだなと言われると、妙に納得する。

ただ、私みたいに、途中からこういうオカルトを信じて軌道修正したなら、とりあえずやっている行動自体はあまり他人を害さずに生きられているから、だからこそ今に至って、昔みたいな不幸の嵐はそれなりに落ち着いたのだと思う。


私が唯物論者だった頃は、どこまでも残虐になれたので、本当に唯物論って害しか生まないというのが分かるし、今、正義感で唯物論を唱えている人たちは、自分が害しか生まない存在だということを少しは自覚して欲しい。

何より、唯物論者はそれ自体が不幸だと思う。

もし次に生まれて来る世が、一つ下の階層の世(便宜上、地獄と呼ぶ)だった場合、そこから這い上がることは難しくなるだろう。

もし地獄に生まれてきて、みんながみんな残虐だったら、それがスタンダードだと思わされて生きることになるから、もう自分も他人を害する悦びに浸りながら生きるしかないし、そうなったらもう、一つ上の世(この世)に這い上がるために相当なカルマを解消しなくてはならなくなる。

そして、地獄より下は恐らく魂の解体という処刑であり、地獄は処刑待ちの魂のゴミ捨て場みたいなもんだ。

悪いことだけは、やってはいけない。

正当防衛などの必要に駆られた殺人とかよりも、自分の悦びのために人をいじめる方が、よっぽど悪い。

善悪の判断は、魂レベルで考えなければならない。


ちなみに、何で魂の処刑があると考えているかというと、処刑がなかったら時が経つごとに魂で溢れてしまうから。

そんな構造なわけがないだろう。

無限に増え続けるものなんか、あるわけがないだろう。