ステファヌ・マラルメの不思議な所は、市販されている訳本を読んでも何だか胸焼けがしてくるのに、自分で訳したやつを読むと面白く感じる所。

胸焼けする理由は、例えるなら負け組なのに無理やり勝ち誇ろうとする落ち武者(騎士)の精神というか、恐ろしいほどの負け犬の遠吠え感というか、そんな感じの負の感情をそそられるから。

きっと、私が訳した文は原文に忠実なため、細かく複雑なニュアンスがしっかり書き残されていて、詩人の負の感情をどこか客観視できる不思議な魅力があるからだろう。

と、自分で言ってしまったが、あくまで自分が読んだ場合にそう思うというだけのこと。

他の人はそう思わないかもしれないことぐらい、自覚している。

しかもそれが、ちゃんと正しく訳されていない可能性があることも、自覚している。

でも、フランス語の原文に忠実に書くとそうなるのだから、これを読んでいるフランス人の感覚が何となく掴めるような気がするのは、気のせいだろうか?

少なくとも、私の翻訳はあくまで自分用なので、自分が納得すればよい。

そのため、読み手に分かりやすくするために文章を端折るなどの行為は、あまりしないことにしている。

 

 

(以下は私が翻訳したもの。ちなみに、この詩の市販本は今手元にないので載せられない。)

 

マラルメ「幽霊」

 

月は悲しんだ。

夢の中で涙を浮かべる熾天使(セラフィム)たちの、弓にかけられたその指は、おぼろげな花たちの穏やかさの中に、花冠たちの蒼穹の上の滑々とした、青ざめたすすり泣きの瀕死のヴィオラを射つだろう――これは、君の最初のキスという恵まれた日だった。

私の愛する夢想は私を苦しめ、悲しみの香りにうまく酔うだろう。

それで後悔も、失望を残すこともなく、もぎ取った心の夢をもぎ取ることだ。

私は彷徨うゆえに、髪に太陽がかかる時に廃れ舗装されたそれの上で握りしめた卵は、道の中、そして晩の中で、君は私への笑いを現す。

そして私は灯の帽子の妖精を見ることが増え、それは以前可愛がられた子どもが、過ぎた美しい眠りの上で悪い終いの手を常に残し、星の香りの白い花束に雪が降る。

 

 

(以下は引用。他人が翻訳したもの。上記と違う詩にした理由は、私自身が下記の詩を自分で翻訳していないから。)

 

マラルメ蒼穹」、渡辺守章

 

永劫変わらぬ 蒼穹の 晴朗なる 皮肉は

打ちのめす、花々の如く 美しく 無頓着に、

無力な詩人を、己が天才を 呪いつつ

苦悩の 不毛なる砂漠を 横切っている男

 

遁(のが)れつつ、眼(まなこ)を閉じても、感じている、見ているのだ、

打ちのめさんばかりの 後悔の 激しさで、

虚ろな わたしの魂を。どこへ 遁れる?

凶暴な夜を 千切(ちぎ)っては 投げる、胸を抉(えぐ)るこの侮蔑に?

 

霧よ、立ち昇れ!撒き散らせ、単調なお前の灰を

棚引く襤褸(らんる)の 靄(もや)もろともに、空に注げ

秋の 鈍色(にびいろ)の沼が、溺れさせようと言う、

だから造れ、広大なる沈黙の 天井を!

 

(以下略。引用、終わり)

 

 

確かに、上記2つを比べてみると、私の訳の方が分かりにくい。

それでも、原文に忠実なのは私の方であり、例えば20世紀初頭を生きたモーリス・ラヴェルたちは、マラルメの詩をそういう風に読んでいたのだと思わされる。(と、私は勝手に思っている。)

なので、ボードレールなどの他の詩もそうだけど、日本の仏文学の大御所が訳したやつは、どこか読んでいて胸焼けがする。

特に上記のような岩波文庫版はそれが酷いと思う。

それは、フランス詩独特の濃い曖昧感というか、麻薬に蕩けるような美しさというか、そういう「曖昧かつ美的なもの」が削ぎ落とされている気がするのだ。

つまり、胸焼けするのはマラルメの詩が100%悪いのではなく、翻訳者によってその表現が変わる可能性があるということ。

それでも、納得したければ、是非、自分で訳してみることだ。

 

と、私が勝手にそう思っているだけで、本当は私の訳が間違っているだけかもしれないけどね。