ハイデガー「技術への問い」ノート

ハイデガー「技術への問い」という平凡社の本を4ページだけ読んだので、ノートにしてみました。

あくまで、自分のために、自分が分かるように書いています。

なので、今このブログを読んでいる人は、このノートだけを読んで内容を理解しようと思うのではなく、必ず平凡社の原本も読んで下さい。

そうでないと、たぶん理解出来ません。


なお、この内容を連続投稿していくと、ブログ読者が困惑すると思うので、あまり投稿しないことにしようかと思っています。



現時点での私の考え:


私のやっている仕事は、技術が上がれば上がるだけ美しいものに仕上がり、お客さんに貢献し、世界の芸術性がまた一歩前進するので、「技術が上がるのは危険」なんてことはない。

ただ、あらゆる技術の「全体のレベル」が上がっていくとどうなるか?という理由なら、分からなくもないが。



ノート:


技術の本質とは、それが技術たらしめるものであって、

技術の本質技術。

(例えば、樹木の本質は、あらゆる樹木を樹木として支配しているものであり、他の木々の間に見出される一本の樹木ではない。)


技術とは、

何か目的を達成するための手段と、

人間の行為。

(「道具的規定」とは、手段と行為の二つを合わせて言うのか、手段だけのことを言うのか、不明。)


正しいものは、目前にある事態に即して、何か的確なものを確認する。

(例えば、正しいチューニングハンマーは、調律されていないピアノ(目前にある事態)をちゃんと調律すること(的確なもの)を、確認することが出来る。)


その確認は、目前にある事態から、その本質を露呈することを、必ずしも必要としない。

(例えば、「ピアノから、チューニングハンマーの本質を見出すこと」を、必ずしもチューニングハンマーを使い終わった際には必要としない。)


だから、道具的規定が正しくても、道具的規定は技術の本質を示してはいない。なぜなら、目前にある事態から本質が露呈しなくても、正しいものは正しいから。