これからは、人の優しさが評価に繋がる。
つい最近、そんなことを感じた。
自分が誰かに復讐をしない決断をしたその理由は、そんなことを感じ取ったからだ。
というか、私に嫌がらせをしてくる人間は、基本、暇人だ。
私には、そんな暇はない。
私は嫌な気分になったら、師匠の研修で休憩時間を少し削ることにした。
そう、今の私は、一流の技術者になろうと思えばなれるのだから。
大概の人たちは、なろうという動機が続かないのだ。
ついこの間、うちのマンションのエントランスの、ドアとドアの隙間に入って出られなくなったトンボを手で取って逃してあげた。
そしたら、その優しさのオーラを感じ取ったからか、あるいは私の中で他人への配慮が無意識下に根付いたからか知らないが、その日から電車の中の女性たちが自分を避けなくなった。
今もその記録が続いている模様。
ちなみにその女性たちについては何とも思っていないが、嫌われていないことに対しては心が座る思いがする。
人に安心感を与える人間ってのは、やってみるとこちらも生きやすいものだった。
話は変わるが。
実は、私の師匠ぐらいのクラスになると、本場ドイツに研修しに行った時も、教わることのレベルが違うのだ。
なぜなら、単にする質問の質が違うから、質問の答えも相応のレベルのものになる、というだけのこと。
けれども、ドイツに行っただけで鼻高々な日本人たちは、師匠の顔ばかりを見て、あからさまに私を無視する人もいた。
私の顔は一切見ずに、私の話は一切聞かないという。
それは、雑魚だ。
他人の気持ちを常に念頭において考えられない奴は、雑魚か、もしくは金持ってても馬鹿にしかならない。
差別思想は、そのまま現実逃避に繋がり、自分の仕事への甘さに繋がる。
何より、差別者の特徴は、オリジナリティが乏しいことかもしれない。
(例えば、差別主義者だったサトウハチローの詩は、サトウハチローでなくても書けそうな薄っぺらな大衆作品だと思う。)
この人たちは、このまま行くと一生ドイツの一流人に馬鹿にされ続ける運命なんだと悟った。
だから、ある意味、関わらなくてもいい人たちだ。
ドイツ語が出来るだけなら、翻訳者のアルバイトでもしてりゃいい。
この会社は、いや、日本のこの業界全体は、もっと本質的なことが未熟すぎており、かつ、それから逃げ続けている。
日立のベビコン買えよ、所詮はコンプレッサーのない会社が。
コンプレッサーがあるだけで、その製品の質が変わるんだぜ?
戸塚会長は、私をちゃんと人として見てくれているし、可能性にもベットしてくれているんだよ。
私は、仕事に関してだけは自分の自慢話をしたくはないけど。(それも宣伝という仕事になっちゃうから、秩序立った場所にて真面目に書かなきゃいけなくなる。それと、浮かれて足下をすくわれた経験が何度もあるので、それが怖い。)
私は、あるドイツ製の古い製品の、大きな不具合の原因を見つけたことがある。
それは、師匠よりも先に見つけた。
その時一緒にいた戸塚さんは、その瞬間を見逃さなかったのかもしれない。
何となくだが、それ以前も親しくしてくれていたんだが、それ以降からより一層親しくしてくれている気がする。
ちなみに、ついこの間まで復元修理を請け負っていたグロト…は、即、買い手が見つかったよ。
師匠の技術も凄いけれども、戸塚さんのお客さんを見抜く目も凄かった。
私は師匠の意向に従って修理していただけだ。
私はまだ、オリジナリティがあまりない。