全体性と無限 第一部B-7章


レヴィナス「全体性と無限」の精読は、取り敢えずここで中断しようと思う。

そろそろ他の本を読みたいからだ。

次は、パスカルキニャールの「秘められた生」を読むつもりだ。

キニャールレヴィナスの思想に忠実に生きている人。


スマホのメモも、単に文章をそのまま書き写すだけでも、脳内に分解されて入ることが分かった。

書き写す作業は、単に文章を移動するだけに留まらず、理解を促進させながら文章を消化する。

なお、()内にて、自分の言葉で分かりやすく書き下した。


分離と超越は、存在の骨組みである。

そして、言説の中にこの関係を見出せる。



(スマホのメモ)


全体性と無限 第一部B-7


無限の観念を持つためには、分離したものとして実存しなければならない。

(無限の観念を持つためには、自分が分離すること。)

この分離が、無限の超越にただ呼応するものとして生起することはあり得ない。

さもなければ、分離は相関関係のうちに位置づけられ、それによって全体性が復元されて、超越は見せかけのものになってしまう。

(相関関係つまり全体性は、超越を殺す。そんなことはあり得ない。)

つまり、無限の観念とは、超越そのものであり、合致する観念からの溢出である。

(神と人とが一体化し、そこから溢れた思考が神の思考である。)

全体性が構成され得ないのは、無限が統合されるがままにならないからである。

全体性を防げるのは、自我の不十分さではなく、他人の無限なのだ。

(他人の神性によって、全体性を防ぐ。)


無限から分離された存在は、にも関わらず形而上学のうちで無限と関わっている。

この存在は、分離が有する無限の間隔を破棄しないような関わりによって無限と関わっている。

(分離は無限の間隔を有している。無限から分離された存在は、無限の間隔を保ちながら、形而上学で無限と関わっている。)

分離のこの間隔は、それゆえあらゆる間隔とも異なるのだ。

形而上学においては、存在は自らが吸収しえないもの、語の語源的な意味で了解する(包摂する)ことの出来ないものとの関わりの内にある。

この形式的構造の肯定的な面(無限の観念を持つこと)は、具体的には言説に等しい。

そして、言説は倫理的関係として明確化されるのである。

いかなる概念の共同性にも全体性にも行き着かない、この地の存在と超越的存在との関係(関係なき関係)のために、私たちは宗教という語を割り当てる。

(我々人間と超越的存在との関係(関係なき関係)は、宗教である。)


超越的存在とそこから分離された存在が同一の概念に参与する(融即する)ことはできないとする超越の否定的記述は、デカルトにも見られる。

存在の多元性は、数の統一の中で消え去ることも、一つの全体性に統合されることもない、とする多元主義哲学があったとすれば、この説はその根拠として役立ったはず。

宗教においては、全体が不可能であるにも関わらず同と他の関わりが存続するが、こうした宗教(無限の観念)こそが究極的な構造。


同と他が、それらを抱握する一つの認識のうちに入りこむことはあり得ない。

分離した存在が、自らを超越するものと取り結ぶ諸関係は、全体性を背景として生起するわけではないし、体系として結晶化することもない。


同と他は一緒ではない。

同と他を一緒に名指す語の形式的な総合は、既に一つの言説の、言い換えれば、全体性を破る超越との接続状態の一部を成している。

(同と他を一緒にしてしまうことは、超越と一部接続している。)

同と他の言葉上の隣接関係が既に位置づけられている両者の接続状態は、私による他者の、額と面を突き合わせた迎え入れである。

(同と他が隣接している接続状態は、他者の顔を私の心に迎え入れることである。これは全体性には還元されない。)

向かい合い

私が他人を「と」という接続詞で自分に結び付けることがあったとしても、その時でさえ他人は私に対面し続けるし、顔において自らを啓示し続ける。

宗教が、この形式的全体性の基底にあるのだ。

そして、私が他ならぬ本書で問題になる分離と超越をあたかも最後の絶対的な見通しのもとにあるかのように言い表すとしても、存在それ自体の骨組みであると私が主張するこれらの関係は、私の対話者たちを前に現前して行われる言説の只中で、既に結ばれている。

(分離と超越は、存在の骨組み。言説の中で既にこの分離と超越の関係は結ばれている。)

必ずや他者は、私が抱く無限の観念を通じて、私に面を(敵対的なものとして、友として、私の師にして、私の生徒として)向けるのだ。

確かに反省によってこうして対面を意識化することは出来るが、反省という自然に反した立場は意識の生における一つの偶発事ではない。

反省は自己の問いただし、批判的態度を含意するが、こうした批判的態度それ自体が、他者の面前で、他者の威光のもとで生起するのである。

(反省する時、自分を問い糺したり批判する態度であったりするが、その態度は他者(もう一人の自分?)の面前で起こり得る。)

対面は究極的な状況であり続けるのだ。