(Facebook投稿記事)


パスカルキニャール「秘められた生」p.2123より、音楽に関する話。


(引用)


ネミー・ザットラーが初めて私のバイオリンを聴いたとき、彼女は言った。

「死んだ手で進まないで!」

そしてこう付け加えた。音楽には死んだ手がごまんとあるのだから、あなたがきっと正しいのね、と。

彼女は黙った。

私には彼女のいわんとすることが理解できなかった。

弱々しくてためらいがちな手は、私に恐怖心を抱かせる。

ロシア語では、女性の弱々しい手が差し伸べられたとき、死んだ子どもが差し出されるのだそうだ。


*


ネミーはただ単に「死んだ手で進まない」と言うだけでなく、こうも言っていた。「デザートスプーンの背中を使って進まない。」

これらフランス語の日常表現なのだが、当時その意味を知らなかった私にとっては、あたかもそれらが世界を開く鍵であるかのごとく重要なものに思えた。

表現の奇異さが、私にはこのうえない価値の証に感じられたのだ。

特級ワインの価値。

卑猥な言葉や隠語の正確な意味を初めて知るときのように貴重なもの。

不幸なことに、そういった表現を耳にすると、言葉のイメージが構成されるに至ったプロセスを解読したり、その意味を明らかにしたりしようと、すぐに私は躍起になってしまうのだった。

あのデザートスプーンの背やあの死んだ手は一体どこから来たのだろうか。どちらもほぼ同じ内容-一気呵成に進むこと、力を抑制せずに楽器をかき鳴らすこと-を意味するというのに。


*


私たちは曲を弾き終えた。私は目を伏せたままでいた。

真の音楽家にとって、音楽は曲の終わりに正確で確固たる沈黙を生じさせる。その沈黙は泣きたいという欲求すれすれのものだ。

大洋に潜る人に課される水圧のように、この沈黙は演奏者を押し潰すと私は思う。

私が彼女に視線を向けたのは、この沈黙の最中だった。

暗譜で演奏するときに、曲の終わりになって初めて目を開く動作は、呼吸する動作に等しい。それはアザラシが氷穴の外に鼻面を突き出すようなものだ。

大気中で息継ぎをしながら、生き延びる手段を確保するために氷壁にアザラシたちが穿つ穴のことを、イヌイット語を話すエスキモーたちは「眼」と呼んでいる。

氷壁を白い背景とするこの黒い穴は、暗い夜空に光る星たちがまるで反転したようにみえる。

ネミーの眼は真っ白だった。その瞳は何も見えていなかった。私はつぶやいた。

「あなたは驚くべきピアニストだ」

彼女は答えなかった。

私に音楽を教えてくれたのは彼女だった。