以下は音楽における仮説。


音楽は自然とともにあるべきだ。


ところが、音楽にも好き嫌いがあって、その違和感と云えば、自然から乖離してしまっている感こそだ。

例えるなら、こう。

音楽が一つの流体作品だとする。

そして、全てが「理想流体」であるならば、「実在流体」から乖離してしまっていることになる。

実在流体にあって理想流体にないもの、それは「粘性」だ。

風力発電のブレードの周りを空気が流れているとしたら、粘性によって必ずブレードの終わりに小さな渦が発生して消えてゆく。

もし音楽がそういう「自然要素」の一部を排除してしまったとすれば、それは人間の本来持つ自然性が違和感を唱えるはず。

有機物ではなく、人工物なわけだ。

そして、その違和感を消すために、人は脳内から快楽物質を出してそれを打ち消そうとし、やがては依存性を持つようになる。(PCの電磁波のように。)


理論が神(直観や自然性)を殺している。

理論は神を活かすのが本来のはずなのに。


もちろん、これは独断と偏見によるただの仮説だ。

本当かどうかは分からない。


ちなみに、12音技法についての仮説は、こうだ。

12音技法は、やはり自然から乖離しているから、遺伝子に自然の情報が組み込まれた人間は、脳内に違和感が走る。

一方で、12音技法でしか味わえない、人間である以上、精神上必要な快楽がある。

それは、例えば人間が数学の美しさを知ることに似る、この世の掟を垣間見ることが出来るような快楽だ。

魂、もしくは遺伝子内に、文明の発達が予定されているのならば、こうした知見に快を見出すのは、人間として正常な反応だと言える。

それを、いかに譜面上で正しく伝えられるか。

このように、人間本来の目覚めを期待することが、芸術作品の使命の一つだと考える。


とまあ、これも仮説だ。

鵜呑みにしなくていい。