閲覧数が復活してくれて良かった。

(今の時点で)今日の閲覧数は16件。

一時期、4件とかに落ちたこともあったが、閲覧数はやはりあった方が嬉しい。

 

このブログを読んで勘違いされた方がいるかもしれないが、私は決して「勉強ができない人」とか、そういう類の人を見捨てるような自己中さは持っていない。

私はどちらかというと、見捨てられてきた側の人間だ。

(まあ、強きに媚びて弱きを見下すような、そんな薄っぺらい価値観で生きている人間なんか周りにいない方がマシなんだけど。)

易占いで、たくらいずいの2こうが出た時、「つまらない人間に関わっていると、立派な人に見放されてしまう」というのは、誤解を生んだかもしれない。

その「つまらない人間」というのは、このブログをわざわざ見て嘲笑しにくる暇人や、中共工作員のような卑劣な仕事をやっている、心が汚い人たちのこと。

「だったら、自分のために時間を使えよ」などと思ってしまうのだ。

 

ちなみに、強きに媚びて弱きを見下す人間に、「石の上にも三年」とか言ったって、通じないから。

だから薄っぺらい人間にしかならなかった、だから今現在そういう性格なんだ、というわけ。

「苦しい時に根を張る」ということをして来なかった人間、つまり、優しさや道義を貫かずに人を騙したり蹴落としたりと楽な方へ傾いてしまった人間は、総じて薄っぺらい。

よって、私とも話が合わない。

人にはそれぞれ、尊厳というものがあって当然なはず。

弱いから見下す、弱いから関わらない、というのは、相手の尊厳を蔑ろにしており、それは自己中心的な考えだ。

自己中な人間は、脳の一部が未発達だとも言える。

それはどういうことかというと、探究力が少なく、知能が低く、専門性に甘いことを意味する。

つまり、性格の良さと知能は、そういう面ではある程度連携していると思う。

性格の悪い歴史上の芸術家なんて、今の時代からしてみれば大したことはなかったりする※。

「犀の角のように、ただ独り歩め」という仏陀の言葉に背中を押されてみたらどうかな。

 

だから私は、有名どころの音楽作品を聴いていなかったり、有名どころの文学作品を読んでいなかったりすることもある。

なぜなら、有名だからではなく、心に響くかどうかで選ぶから。

性格が悪い奴の作品は、なんか臭くて心に響かないのが多い。

そして、性格が悪いのに良い作品を作る人は、ちょっと可哀そうだ。

そういう奴は、あまりに理解してくれる人が周りにいなさすぎて、孤独な奴が多いと思う。(←そういう孤独は、実際味わってみると結構辛い。)