すごくよくわかる、ジャック・デリダの批判↓

声と現象の通販/ジャック・デリダ/林 好雄 ちくま学芸文庫 - 紙の本:honto本の通販ストア

(コメント欄より、抜粋)

紙の本

「現前の形而上学批判」ならぬ、「現前のテクスト遊戯」かも・・・。

2009/09/02 10:31

8人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 投稿者:形而上学 - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書と『グラマトロジーについて』は、デリダの初期の仕事を代表するばかりか、全著作中でも非常に重要な位置にあると思われる。
この『声と現象』では、デリダの師であるフッサール現象学を土台にして、自らの思想を語っていくという体裁をとってはいるが、フッサールの著作とはまた違ったデリダ独特の難解さは、ここで早くも出てきている。翻訳者もかなり苦労したことであろう。そして文庫で読めるというのは、何とも有り難いことである。
しかし、実を言うと、私にはデリダの言っていることが常によく分からないのだ。もちろん本書においても、フッサールは一応自分なりの理解をしているつもりであるが、本書における(いや、デリダの全著作において)フッサールのテクストの扱いについては、いささか疑問に感じざるを得ない気がした。デリダが「現前の形而上学批判」をずっと展開していたことは知られているが、デリダの著作における批判対象及び読解対象のテクストというものは、本当に「エクリチュール」の文字面だけというか、メタレベルの思考読解というものがない。あるテクストが出てきたらそのテクストの文字だけしか相手にしていないといったら御幣があるだろうか、しかし、私にはそういう気がしてならない。
デリダからまず「個性的文体」を取ったら、何が残るであろうか。レトリックとまでは言わないが、文章表現において詩人や小説家のように細心の注意を払ってきた人なだけに、肝心の「思想的内容物」にまでクオリティーが達していないのではないだろうか。
フッサールは極限まで現象学を用いて世界について考察しぬいた。しかし、デリダは「文体学」や「操作子」を用いて、果たして「物事の何故」を極限まで問い詰めた思想家だったのか。
結局は、デリダという人は、「現前のテクスト」と「戯れた」だけの思想家的人物だったのではないかと、最近の私は訝っている。
出来うるならば、そういう視点で、個々人がこの代表作を読んで確認してみて欲しいと思う・・・。

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デリダマラルメ論↓

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ellf/107/0/107_187/_pdf/-char/ja

私はフランス詩が好きなので、上記PDFは読み通した。

意味論的空虚か。

なんか、それを理解した瞬間に、脳が快楽を得ている。

ハマりそうな言葉だ。

単語の意味というのは、文を成り立たせる単語の効果であり、そこに何か単語を入れるための場所があると仮定したら、それは「意味論的空虚」となる。

 

(引用)

デリダの定式化によれば、単語の意味は、文という形式の発話に
よってそのつど単語が使用されたときに生じる効果である。そのとき単語
は、意味を持った元素というより、文の一角を占める統語法的な単位であ
り、意味効果を受け取る受け皿や場所である。この場所を、デリダは「意
味論的空虚」(le vide sémantique)と呼んでいる(p. 352)8)。

(引用、終わり)

 

マラルメの詩なんか理解できなくて当然だと考えられているようだ。

なぜなら、そこには一筋通った意味などないのだから。

それは、決定不可能性と呼ばれている。

意味を決定してはいけないのだ。

 

散文と韻文のどちらにも属さない、マラルメの詩。

散文は、意味論的単位が主である。

それに対して、韻文は、形式的単位が主である。

マラルメの詩は、後者を拡大させたものである。

 

マラルメ自身は、例えば「読まれることのない文字(フランス語の語尾のsなど)」の美しさ(=目の快楽)にすら、フランス語の詩句の可能性を感じていたようだ。