レヴィナス「全体性と無限」第一部B-3。
自分用のメモ。
手こずった箇所を、自分が理解するまで、その系譜を書いておく。
(私のスマホのメモより、引用)
・私に固有で本質的なものの領野(原初的領分)のうちでの、他人の身体の構成
・他人の身体のこのように構成された対象
・私に固有の領野に現れたある物体が、私固有の身体に類似したものとして対をなすこと(→対象自体が一つの「私はできる」として内部から経験される私の身体との超越論的対化)
・他人のこの身体を他我として了解すること
以上のことは、構成の記述と見なされる諸段階のそれぞれにおいて、対象の構成が他人との関係に変容することを隠蔽してしまう。
他人との関係は、この関係をそこから引き出そうと試みられている当の構成と同じくらい本源的。
私に固有で本質的なものの領野(原初的領分)は、私たちが同と呼ぶものに相当。
これが絶対的に他なるものに向かうのは、他人の呼び声によってである。
(引用、終わり)
他人との関係を記述してまとめようとすると、その記述された構成が他人との関係に変わることを、「隠蔽」してしまうんですね。
その他人との関係は、隠蔽されはするけれども、ちゃんと本源的に残っているんです。
同とは、私を私たらしめるものの範疇に入っている。
というか、同じもの。
なぜなら、それを言っている「私」と、「私たらしめるもの」が、同じでないわけがないから。
ただその同というやつは、他人の呼び声によって、他なるものへと変わる。
「他人との関係」は、以下の通り。
私から見た他人の、身体の「構成」。
(恐らく、「そいつがそこにいますよ」という以上のことは言っていないと思う。)
↓
他人のことを、私は「対象」として認識している。
↓
ということは、私と他人は、その宇宙の場に「対」になっている。
(「私がいて、そいつがいる」という対。しかも、私と類似している人間同士だから、話すことが出来る。)
↓
私は他人を、「他我」だと思う。
(「他人と私は違う存在だと、認識すること。)
なお、上から3番目の「対」の話は、意味不明な箇所があった。
(対象自体が一つの「私はできる」として内部から経験される私の身体との超越論的対化。)
これは、対象の対化について述べてある。
しかも、魂の視点から見ている。
これ、ユダヤ教徒でないと分からないのでは?
超越論的とはアプリオリのことで、「経験する前に知っていた」というオカルトチックな話になる。
つまり、
私とそいつ(魂と魂)がそこで出会っていると、私もそいつも「私はできる」というスタンバイ状態にありますよ、
という意味だと思う。