全体性と無限 第一部 B-2章

(スマホのメモ)


全体性と無限 第一部 B-2


分離した存在の無神論的な自存性は、無限の観念との関係を唯一可能にする。

無限の観念(同と他の関係)が、分離を取り消すことはない。

同と他が合流し得るのは、全く安全に他の上で休らう代わりに、真理を探究する際の危うさと危険においてのみである。(無知や錯覚や誤謬の危険そのため、隔たりを埋め合わせることはないし、認識するもの・認識されるものを結合することもないし、全体性に行き着くこともない)

分離がなければ、真理はなかった。

真理は、分離のうちで自律した存在を前提としている。

真理の探究は、まさに欲求のうちにある欠乏には依拠しない関係である。

それは自己とは異なる物によって定義されるからではなく、ある意味では、何も欠けてはいないからである。


内奥的生、自我、分離は、根こぎそのものであり、非融即であり、それゆえギュゲースのように罰せられることのない罪の可能性という代価を持ち、それゆえ誤謬と真理の両価的可能性である。

認識する主体は、全体の部分ではない。なぜなら、この主体はいかなるものとも境を接していないからだ。


無限に向かう観想は、自己同一性ではなく、欲望を呼び起こすものから来ている。

無限とは、欲望を呼び起こすもの。

無限とは、自分が思考する以上に思考するような思考が接近できるもの。


欲望とは、尺度(mesure)がまさに不可能であるという尺度。

欲望が尺度を当てがう、尺度なき法外さ(démesure)こそが、顔である。

だが、ここに欲望と欲求の区別をも、再び見出せる。

欲望欲求

欲望とは、欲望をそそるものが活気づける切望のこと。

欲望とは、その対象を起点として生まれるのであり、欲望とは啓示である。

欲求とは魂の空虚であり、主体からスタートするものである。


享受の心性・エゴイズム・幸福(自我が自己同定する場)によって生起する分離においては、自我は他人を知らずにいる。(自分の中だけで分離が起こる=自律している)

幸福を超えた、他者への欲望は、この幸福や、世界内で感性的なものが、自律していることを要求する。(→他人に分かってもらえなくてもそうなのだ。)

人格的生を恵みとして与えられた無神論者と化した自我は、他者の現前に由来する欲望の中で乗り越えられる。

欲望が欲望となるのは、既に幸福な存在においてである。(欲望は、幸福なものの不幸であり、贅沢な欲求なのだ。)

自我をまず実存者として思い描いた上で、幸福が属性としてこの実存に付加される。(あとから幸福を恵みとして与えられたものとして自我を思い描くことは出来ない。)


自我は幸福なものとして実存する。

自我は存在を超えて実存する。

自我は、享受すること(幸福)と欲望すること(真理および正義)を介することで、存在を超えたところの極みに位置する。

欲望において、存在は善性と化す。


飽くことのない欲望は、無限の飢えに応えているのではなく、そもそも糧を呼び求めていない。

欲望に飽くことがないのは、私たちの有限性によるものではない。

欲望をそそるものの現前(啓示された現前)による、存在の絶対性の侵食としての欲望。

分離にあって自分を自律的なものと感得する存在のうちで、欲望をそそるものは欲望をえぐるのである。


欲望の第一の運動は、不死性ではなく、他者・異邦人である。

欲望は絶対的にエゴイスト的ではないものであり、その名は正義である。


一神教が齎した創造の観念の偉大な力は、この存在が無からの(ex nihiro)ものだという点にある。

この創造においては、分離され、創造された存在が、父から生じただけでなく、父に対して絶対的に他なるものであるからだ。(ex. 父から生まれた世界に住んでいる我々は、父から見て他なるもの。)

子であることそれ自体が、自我の運命にとって本質的なものとして現れ得るのは、人間がこの無からの創造の記憶を保持している場合に限られる。(この記憶がなければ、息子は真の他者ではないからだ。)


幸福と欲望を分ける隔たりによって、政治と宗教が分けられる。

政治=相互承認(平等)を目指す。幸福を保障する。政治的法は承認をめぐる闘争を完遂させ確たるものとする。

宗教=欲望である。承認をめぐる闘争では全くない。平等な者たちの社会に生じ得る剰余。栄光ある謙譲・責任・犠牲の剰余であって、これこそが平等そのものの条件である。