(スマホのメモ)
全体性と無限 第一部 B-4
どんな言説でも外部性の関わりであるというわけではない。
私たちが言説の中で接近するのは、私たちの師である対話者ではなく、対象や、子ども、群衆としての人間である。
教育指導的・精神誘導的な私たちの言説は、レトリックである。
そのレトリックは、隣人に策を弄する者の立場に立っている。
いかなる言説にも不在なわけではないレトリック、哲学的言説が乗り越えようとするレトリックは、言説に抵抗する。
(あるいは、教育指導や民衆煽動や精神指導では言説へと仕向ける。)
レトリックは言説であり、あらゆる術策を通して他人へと向かい、他人の諾を懇請する。
レトリックは、自由を奪う暴力になり得るが、自由に範疇を当てがう術を心得ている。
レトリックに含まれる教育指導・民衆煽動・精神指導を放棄することは、真の言説のうちで他人と正面から接することである。
その時、存在はあらゆる支配の外にいる。
一切の客観性からこの(真の言説のための)解放が存在にとって肯定的に意味しているのは、顔におけるその現前化、その表出、その言語である。
他なるものとしての他者は、他人である。
他人を存在させるには、言説の関係が必要。
他人が主題として自らを示す場である純粋な暴露は、それゆえ他人を尊重していない。
このように言説のうちで正面から接することを、私たちは正義と呼ぶ。
存在が自分自身の光で輝く絶対的経験において、真理が出来するのならば、その真理は真の言説ないし正義のうちでしか生起しない。
思考=魂の内を相手にする会話
言表=それ以外の会話
非人称的な関わりや、非人称的な言説は、孤独な言説であり、自分自身と会話する魂に基づいているように思われる。
イデアの概念とは、他なるものが他人に変容することに等しい。
イデアを仲介とした共同体は、対話者たちの間に純然たる平等を確立する事はない。
真理に到達した言説とは神との言説であって、神は私たちの召使い仲間ではない。
我らが師たる他人との関係が、真理を可能にする。
こうして真理は社会的な関わりと結びつくのであって、この関わりが正義である。
正義は、他人のうちに私の師を認めることにある。
複数の人格の間の平等は、それ自体では何も意味しない。
平等には家政的(エコノミック)な意味があり、貨幣を前提としており、既に正義に依拠している。
正義は、他人としての特権、他人の統御(師であること)であり、レトリックの外部で他人と接することである。
レトリックは、策略・支配・搾取だ。
レトリックの乗り越えと正義は一致する。