ステファヌ・マラルメの「デイヴァガシオン(Divagations)」というエッセイ集があります。
その中に、「Mimique(黙劇)」という題のエッセイがあります。
今回は、その話をします。
私が図書館で借りたものは、そこの部分は渡邊守章訳でした。
そして、私はこの「黙劇」という題のエッセイについては、過去に自分で翻訳して読んでいました。
結論から言うと、私の訳には間違いがあり、今だったらやらないだろうミスも、当時の私は結構やっていました。(赤字で訂正しておきました。)
でも、だからと言って、渡邊訳より私の訳のほうが正しい部分も、一部あると思いました。
いや、私の訳の方が、どちらかというと正しい部分が多かったのです。
それはどうやって見つけたかというと、文章に筋が通っているかどうかで判断できたのです。
試しに、渡邊さんの訳と私の訳を並べてみます。
最初の段落の部分です。
渡邊訳:
「沈黙とは、脚韻のあとに残された唯一の豪奢であり、オーケストラも、己が黄金の音、思考と夕べとのあえかな触れ合いによって、声無き頌歌にも等しく、その意味作用をひたすら詳細にするにすぎず、詩人こそが一つの挑戦にうながされて、それを翻訳する役割を担う。」
私の訳:
「沈黙、韻の後の唯一の贅沢、彼のそれの今にはないオーケストラ、熟考と晩の小競り合い、それは叙情詩を殺すに等しい意味をもつ箇条書きの詳細化する中にあり、それは詩人とともにあり、挑戦のために煽られて、訳される!」
私の最終的な意訳:
「沈黙は韻の後の唯一の贅沢で、今には存在しないオーケストラであり、この熟考と晩の小競り合いは、叙情詩を殺すに等しい意味を詳らかにしながら、それは詩人とともにあり、挑戦のために煽られて、訳される!」
原文↓
Divagations (1897)/Mimique - Wikisource
渡邊訳の方が意訳的で、私の方は直訳的です。
まず、「挑戦のために煽られて、○○を訳される」というのは共通しています。
この○○の部分ですが、冒頭の「沈黙」が当てはまるでしょう。
これも共通しています。
ただ、渡邊訳の「詩人こそが一つの挑戦にうながされて」というのは、詩人が主語になってしまっています。
そこは、「詩人」ではなく「沈黙」が主語で、沈黙が挑戦をうながしているのだと思うのです。
原文では「et que c’est au poëte, suscité par un défi,」とあり、私の訳「それは詩人とともにあり、挑戦のために煽られて、」の方が、詩人ではなく沈黙が主語であり、直訳的ですが正しい意味だと思います。
なぜなら、そこを渡邊訳の「詩人こそが一つの挑戦にうながされて」にするならば、「et que c’est au poëte que suscité par un défi,」となるはずだからです。
つまり、私の訳にすれば、「沈黙というのは、何かを書きたくなる挑戦」だという意味が通るのです。
また、私の訳ではこの沈黙のことを、「叙情詩を殺すに等しい意味を持つ、箇条書き」と書いていますが、渡邊訳では「声無き頌歌にも等しく、その意味作用をひたすら詳細するにすぎず」と書かれています。
私の方は「沈黙=箇条書き」なんですが、渡邊訳では「沈黙=沈黙」なんです。
これは、私の方が間違っていました。
渡邊さんの「détailler=詳細を与えるために」が正しく、当時の私は辞書にあった「箇条書き」という訳を信じてしまっていたのでした。
「détailler la signification」は、「意味を詳細化する」という訳が正しいと思います。
さらに、「un orchestre ne faisant avec son or」の部分。
「or」を、渡邊さんは「今」ではなく「黄金」と訳していますが?
これは、本当に私の間違いでしょうか?
「or(オル)」という単語そのものは、「黄金」・「今」の両方の意味を持ちます。
でも、この段落は「沈黙」が主語です。
だったら、私の訳にある「今にはないオーケストラの音」ならば、無音という意味なので、「沈黙」という意味に通じていると思うのです。
よって、渡邊訳の沈黙を「己が黄金の音」と訳したのは間違いだと思うのです。
なぜなら、渡邊訳には「ne faisant(作ることをしない)」が抜けているからです。
さらに、「ode」を「頌歌」と訳すか「叙情詩」と訳すか。
これは、どっちでもいい気がします。
なぜなら、フランス語ではどちらも同じ単語であり、それをこの文脈で判断することは出来ないからです。
ただ、「une ode tue」は、直訳すると私の「叙情詩を殺す」の方が正しいです。
なぜなら、渡邊訳の「声無き頌歌」にするには、「tue」を過去分詞にする必要があると思うからです。
それに、私が「熟考と晩の小競り合い」と訳したのは、詩人であるマラルメ自身が、晩まで熟考を続け、晩になったら飯を食ったり寝たりする時間になって詩作を中断するから、その熟考に沈黙が訪れる、みたいな意味だと思ったからです。
沈黙は、詩の区切りでも体験できますが、そこでも体験できるという。
しかもその沈黙は、「叙情詩を殺すに等しい意味を詳らかにする」のでしょう。
この部分は、哲学を読むのに慣れていないと頭の回転が追いつきません。
もちろん、熟考しなければ詩人はこの文章を作れません。
しかし、頭の回転が追いつかなくなった時、叙情(感情)の詩を書くのが止まり、それが沈黙であり、沈黙はその追いつかない頭の理由を詳らかにするという…のでしょうか?
(はっきり言うと、今の私のレベルの感性では、この部分は意味不明でした。)
以上です。
分かったことは、翻訳家というのは膨大な量の文章を翻訳しなければならず、一つの文にそこまで力を注げない現状があるのではないか?ということです。
この膨大な量を限られた時間で翻訳しないと仕事にならないからでしょうか?
しかし、だからこそ、私のように「自分で訳して読む」という作業が大事になってくるのでしょう。
私は翻訳家でもなければ、フランス留学経験もありません。
しかし、今回の件では、明らかに私の訳の方が正しい部分が多かったのです。
そのことから、やはり「既存のものを疑ってかかる」のが大事で、そうしないとフランスの作家が本当に伝えたかったことが、日本人である我々には充分に伝わらないのでしょう。