1月1日にブログを投稿しなかった。
書きたいことがなかったからだ。
これは意味論的空虚ではない。
意味のない空虚だ。
Facebookのとあるグループに投稿したが、スクリャービン「24のプレリュード2番」のことについて。
この楽譜の9小節目にcresc.(クレッシェンド)が書かれている。
しかし、「どのくらいまで音量を上げればいいか」が書かれていない。
恐らく13小節目辺りで音量が頂点に達すると思われるが、それが「f」なのか「mf」なのかが分からないのだ。
そして、15小節目でdim.(ディミヌエンド)が書かれており、音量を下げてゆく。
つまり、「cresc.→?→dim.」となっていて、間に発想記号が書かれていないのだ。
このことを、ジャック・デリダの言葉を借りれば、「意味論的空虚」と呼ぶのではないだろうか?と私は思ったのだ。
「意味論的空虚」とは、デリダ「散種」のマラルメ論に出てくる、詩に関する造語。
簡単に言うと、「詩の一文が入る予定の、空白部分」のことだ。
その空白には、言葉が入るための引力があり・・・詩人は言葉をそこに入れたくなるが、言葉を入れる前は空白なので、それを空虚と呼んでいるのだ。(ちょっと難しいかな?)
また、マラルメは自身のエッセイにて、詩作では「沈黙」を操ることが重要だとしばしば書いているが、デリダはちゃんとそれを汲み取っているのだと思う。
これはデリダの信者よ、デリダの「散種」だけでなく、「マラルメ全集Ⅱ ディヴァガシオン 他」を図書館で借りて読まないとダメだぞ。
図書館の返却期限まで、気になる部分だけでも読むのだ。
ちなみに私は、デリダ「散種」は積読になっていて、読む優先順位の順番待ちをしているところなので、何も偉そうなことを言える立場ではないがね。