全体性と無限 第一部 B-5章


()内に、自分の言葉でまとめつつ書いています。

思考に共同性はないが、言語に共同性はある。


(スマホのメモ)


全体性と無限 第一部 B-5


発話するとき、精神は他の精神が既に思考しているものを想起する。

自分の精神と他の精神は、共通の観念に参与しているのでは?

しかし、思考に共同性があるのなら、諸存在間の関係としての言語はあり得なかったはずだ。

(思考が共通ならば、言語なんて要らなくなる。よって、思考に共同性はない。)

普遍的思考には、伝達は不要。

理性の存在そのものが単独性を放棄することにある。

ある理性がある理性にとって他なるものであることはできない。

理性が一つの自我であったり他の自我であったりすることはない。


万物の尺度たる人間という観念は、無神論的分離の観念や、言説の根拠の一つを齎すもの。


分離した思考者たちが理性的になるのは、思考するという彼らの個人的で個別の行為が、この唯一普遍的な言説の契機として姿を現す場合に限られる。

(魂とは本来無神論的であり、同と他に分離するものだ。そして、人は話そうとする時にのみ、理性的になる。)


しかし、思考者を思考の一契機とするなら、言語が持つ啓示の機能を、諸概念の首尾一貫性を言い表す言語の首尾一貫性に限定することである。

(神の啓示は、自分の中で首尾一貫している。)

この首尾一貫性において、思考者の唯一的自我は蒸発する。

(自分の意見を啓示によって書き換えられる。)

だとすると、言語の機能は、この首尾一貫性を破る他なるもの、それゆえ本質的に非合理な他なるものを除去する。

(他であるはずの意見を抹消して、啓示の方を信仰するから。)

言語とは、他と同を調和させることで、他を除去するものとなる。

(他なるものだった啓示を、自分の心に取り入れると、神と自分の意見が同じになり、自分の意見(他人から見たら他者の意見)を殺すことになる。)


表出の機能において、言語は自分が宛先とする他者、呼びかけ呼び出す他者を維持する。

(言語が表に出てくることによって、相手がそこにいる、という前提が成り立つ。)

もっとも、言語は、表象され、思考された存在として他者を呼び出すことに存するのではない。

(思考された言語が表に出てきて、初めて他者を呼び出すのではない。=初めに言葉ありき。)

しかし、だからこそ言語は、主体・客体関係には還元できない関係、すなわち他者の啓示を創設するのである。

(だからこそ言語は、主体(見るもの・知るもの)と客体(見られるもの・知られるもの)の関係では説明がつかない、そんな神の啓示を創設するのである。)


記号体系としての言語が構成され得るのは、啓示においてのみ。

(例えば、現実を言語で説明するとき、現実そのものではなくて、言語という(体系づけられた)フィルターを通して行われる。そのように、言語は記号から成り立っている。それは、神の啓示によって書かれた聖書によって発祥している。)


プラトンは、真理の客観的秩序と、存在の内なる秩序との差異を固持している。

(外面世界と内面世界は違うものだ。)

存在の内なる秩序とは、生き生きとして魂を持った言説だ。

その言説は、自由がもつ危うさを伴って、思考者同士の闘争の中で真理を構成する。


言語という関わりが前提とするのは、超越、徹底的な分離、対話者同士の異質性(異邦性)であり、私に対する他者の啓示である。

つまり、言語が話されるのは、関係をなす諸項の間の共同性がない所、共通平面がなく、それが初めて構成されるべき所である。

言語は、こうした超越の内に場を占めている。

それゆえ、言説とは、絶対的に異質な(異邦的な)何かの経験であり、純粋な認識・経験であって、驚きが齎す外傷なのだ。


絶対的に異質(異邦)なものだけが、私たちに教示することが出来る。

絶対的に異質なもの↔︎あらゆる類型学、類(ジャンル)、性格学、分類

絶対的に異質なものであり得る、それゆえ最終的には対象の彼方まで進出していく認識の終着点は、人間のみである。他人の異質性・他人の自由そのもの。

「自由な存在だけが、互いに異質であり得る。」

こうした諸存在に共通の自由が、まさにそれら()を分離する。


純粋認識=言語は、ある意味で私に関わっていないような存在との関わりからなる。

(純粋認識経験的なものを全く混入していない、アプリオリな認識のこと)

或いは、言語(純粋認識)は、自己と完全な仕方で関わっている(自体的である)限りでのみ、私と関わるような存在。

つまり、言語(純粋認識)は、あらゆる属性を超えた所に場を占めるような存在。

属性の効果とは、言語(純粋認識)を形容することにあるとされる。

つまり、属性の効果とは、他の諸存在と共通のもの()にそれを還元することにあるとされる。


事物は、作られた目的である機能を達成することに埋没している時には、すなわち、消え去るほどまでに自分固有の究極目的に根本から従属している時には、装飾を必要としない。

事物はその時、自らの形態のもとで消え去る。

個々の事物の知覚とは、これらの事物が形態の内に完全には埋没しない、という事態。

(形態組織立っている物事を、外観から見た有り様)

その時、事物はそれ自体として浮かび上がる。

そして、自分の形態を貫き、穴を開ける。

つまり、事物が装飾を必要としない時には、全体性に結び付けられるような関係には解消しない。


裸性とは、自らの究極目的に対してその存在が持っている剰余である。

剰余とは、事物の不条理さ・無用さである。

(裸性は無用なものである。禁断の果実)

裸性それ自体は、形態との関わりにおいてしか現れない。

しかし裸性は、形態とは際立った対照をなし、形態を欠いているのだ。

(裸性と形態は違うので。)

事物は、常に不透明さであり、抵抗であり、醜さである。

プラトン叡智的太陽は、見る眼やそれが照らす対象の、常に外に位置する。事物の知覚を正確に記述している。

対象は、固有の光を持つのではなく、借りものの光を受け取るのである。


その後で、この裸の世界に新しい究極目的を(内的な究極目的を)導き入れるのは、美である。

科学や芸術を介して暴露する(幕を剥ぐ)ことは、本質的に言って、原基に一つの意義を纏わせることであり、知覚を乗り越えること。

(知覚を乗り越える=知覚に他人の意思を介入させること)

事物を暴露する(幕を剥ぐ)こととは、形態を介して事物を照らし出すこと。

すなわち、事物の機能や美を感知することで、全体における場所をこの事物に見つけてやることである。


言語の働きは、全く別のものだ。

言語の働きとは、一切の形態から解放されていながら、それ自身で自体的にある意味を持つような裸性との関わりに入ることにある。

(自体もともとの本体、それ自身)

(意味を持つ裸性。言語の働きは、裸性との関わりにある。)

この裸性は、私たちが光を当てる前に意味するのであり、(善悪や美醜のような)価値の両価性を背景にした欠乏ではなく、常に肯定的な価値として現れる。

(光を当てる前=叡智的太陽に照らされる前=何かを発見する前)

このような裸性が、顔である。

顔の裸性は、私が顔を暴露する(幕を剥ぐ)がゆえに、私に差し出されるものではない。

しかも、それゆえ顔の外部にある光の中で、私や、私の権能や、私の眼や、私の知覚に差し出されるようなものではない。

顔は私の方を向いたのだーーこれこそが、まさに顔の裸性である。

顔はそれ自体で存在するのであり、ある体系に従うことによってではない。

(顔は裸性である。)


裸性:

1.自らの体系を失った不条理さ

2.一切の形態を貫く顔の意義

3.羞恥において感じられるような、また、嫌悪や欲望において他人に対して現れる、身体の裸性


3.は、常に顔の裸性に準拠している。

顔を介して絶対的に裸であるような存在だけが、淫らに裸になることも出来るのだ。


私の方を向く顔の裸性と、形態に照らされた事物の暴露の間の差異。

顔との関係は対象の認識ではない。

顔の超越は、同時に、顔が入り込むこの世界に不在であること、ある存在が離郷していることである。

それは、異邦人の、無一物者の、プロレタリアの境遇である。

自由である異質性(異邦性)は、悲惨としての異質性でもある。

自由は、他なるものとして、同に現前する。

他者の顔の裸性は、身体の裸性へと延長される。


自体的な実存は、世界の内なる一個の悲惨である。

そこにある私と他者の間の関わりは、レトリックを超えた関わりである。

(レトリック=巧みな表現)


眼差し=顔の公現

顔の裸性とは、赤貧(裸になること)なのだ。

他人を認識することは、飢えを認識すること。

他人を認識すること、それは与えることである。

しかしこれは、師や主君に与えることである。


私に所有された世界(享受に差し出された世界)がエゴイスト的な立場とは無関係の視点から感知されるのは、寛大さにおいてである。

(世界を、自己中心でなく感知されるのは、寛大さにおいて。)

客観的なものとは、単に平静な観想の対象ではない。

むしろ、平静な観想の方が、贈与によって、譲渡不可能な所有物の廃止によって定義される。

(平静な観想は、寛大さである。贈与によって、譲渡できない物はない。そのことによって観想は定義される。もちろん、客観的なものは、単にこの観想の対象ではない。)

他人の現前は、このように私の喜ばしい世界の所有を問いただすことに等しい。

(他人は、私の喜ばしい世界を殺すかもしれない。)

感性的なものの概念化は、既に、私のものを他人の便宜に供するにあたっての、私の実質や私の家という生身の肉におけるこの切断に由来する。

(感性的なものの概念化は、私の世界を殺す。)

このように私のものを他人の便宜に供する中で、事物が商品になり得る地位に降りていくことが準備される。

(他人とのコミュニケーションの中で、私の中の考えが商品程度になるかもしれない、そんな状態に準備される。)

この始源的な所有権放棄が、のちの貨幣を介した一般化の条件となる。

概念化は、最初の一般化であり、客観性を条件づけるものである。

客観性は、譲渡不可能な所有物の廃止と合致する。

(客観性=譲渡できない所有物などないことと)

このことは、他者の公現を前提としている。

一般化にまつわる問題の全ては、こうして客観性の問題として立てられる。

一般的で抽象的な観念にまつわる問題は、客観性を構成済みのものとして前提できない。

(客観性が構成されていない状態で、観念の問題を語ることになる。)

一般的な対象は、感性的対象ではなく、ただ一般性と理念性への志向のうちで思考されたものにすぎない。

(普通は、感性的な対象として物を見ない。)

というのも、一般的で抽象的な観念をめぐる唯名論の批判は、それでも克服されていないからだ。


知覚から概念への移行は、知覚された対象の客観性の構成に属している。

(知覚概念、この移行が、知覚された客観性を一部構成している。)

知覚を身に纏った理念性への志向を通じて、同のうちで自己同定する主体である孤独な存在が諸理念の超越的世界の方に進んでいくのは、間違い。

対象の一般性は、エゴイスト的で孤独な享受を超えて他人に向かう主体の寛大さと相関している。

(他人のいる世界に干渉する寛大さが、対象の一般性と関係している。)

それ以後、主体は、享受という排他的な所有のうちに、この世界の財の共同性を生じさせるのである。

(主体は他人のいる世界を受け取ることによって、この世界のあらゆる財産の共同性を生じさせる。)


他人を認識すること=

・所有された事物の世界を通って他人に到達すること

・贈与によって共同性と普遍性を創設すること

言語が普遍的なのは、言語が個別的なものから一般的なものへの移行そのものだから。

言語が私の事物を他人に差し出す。

話すこと=

・世界を共通のものにすること

・共通の場所(常套句)を作り出すこと

言語は、概念の一般性に従うのではなく、共同所有の土台を築く。

言語は、享受の譲渡不可能な所有物を廃止する。

言語における世界は、もはや分離(全てが私に与えられている我が家)における世界ではない。

(言語は個々のものではない。共通の世界のものである。)

この世界は、私が与えるもの(伝達可能なもの、思考されたもの、普遍的なもの)である。


それゆえ言説とは、事物からも他者たちからも離れているような二つの存在の悲愴な衝突ではない。

言説は愛でもない。

他人の超越は、他人の卓越であり、高さであり、主人たる姿であると同時に、他人の悲惨、離郷、異邦人としての権利をその具体的な意味のうちに包含している。

異邦人の、寡婦の、孤児の眼差しであり、私は与えることでしか、あるいは拒むことでしか、この眼差しを認識することができない。

私は与えるのも拒むのも自由だが、必然的に事物を介することになる。

事物は場所の根拠ではないし、大地の上での(そして、天空のもとで、人間たちと同じように、神々を待ちながらの)私たちの現存を構成する全関係の精髄ではない。

同と他の関わり、私による他の迎え入れこそが究極の事実であって、そこで事物は人が建てるものとしてではなく、人が与えるものとして出現するのである。