二つ前の記事に書いたこと。

「私の中のあらゆる悪意を消し去ったら、そこには消えない恐怖心が残った。しかし、マーク・ソルボルグのフリージャズを聴いていたら、その恐怖心が少し癒えてきた。」

と書いたと思う。

その続きだが、現実が変わった。

 

まず、今私が嘱託社員で勤めている会社は、人間関係の面では間違いなく良い会社だということが分かった。

そのことが、社員を通して確認できた。

その社員は、仲間を「最高の人たちです!」と言っていた。

世の中、良い会社なんて探せば腐るほどあるってこと。

 

次に、喫茶店で出会う客たち・店員たちが、良い人ばかりに変わった。

まあ、隣にいた奴が一人、「実は俺、東大出身の人たちに好かれていてw」とかずっと言っていたが、そういう雑魚はほっとくとして。

今までの喫茶店は、場所が悪かったのかもしれないな。

 

最後に、これは恐怖心があったからこその負の遺産なのだが。

私の芸術性がまた変わっていった。

マーク・ソルボルグの音楽の良さが分かるということは、それだけ心が繊細になっているということであり、他の音楽に対してシビアな評価を下すこととなった。

時々、トリスタン・ミュライユの現代音楽が、嫌になる時がある。

なぜ嫌かというと、簡単に言うとクラシック音楽という「枠」または「檻」の中に嵌まっている芸術性が、時々嫌になるのだ。

これは、私がレヴィナスと同じ気持ちになれたからかもしれない。

レヴィナスは、死者の気持ちを全く考えない「歴史」という時系列がすごく嫌みたいだから、それに近い感性だ。

これは、平行植物における有機物と無機物の違いみたいなもので、ぴしっと直線が合わさったものが無機物で、ランダムに生長していく姿が有機物なのだ。

私は、フリージャズには有機物であって欲しい。

音楽の有機性を、身体が欲している。