(続き)
ああ、なるほどなるほど。
マルドロールの歌「第六歌」の、架空の物語→読者へ話しかける形へと移行した形式について。
このテクストは、「エクリチュール(書き言葉)」と「エクリチュールの外(読者)」との関係を書き込んでいることになる。
その関係を書き込むのは、散種であると。
第六歌では、どうやってマルドロールの歌(第一歌〜第五歌)を書いたのか、作者がぶっちゃけるんだよね。
「数学を勉強したことがこの詩作に役だった」みたいに。
このぶっちゃけを入れる構造こそ、散種の構造を持っていると。
(スマホメモ引用)
第六歌は、先行する歌たちを論証的な序文(詩法、方法論、教育的説明)という過去へと追いやることになる。
先行する歌たちは、実践であると同時に分析的でもあるテクストに属さないことになる。
だがこの図式はひっくり返りもする。
同じ方法で前テクストとテクストとの対立を転位させる。
テクストと、それを現実という形ではみ出すように見えるものとの間を通る境界を、この図式は複雑にする。
散種は、テクスト概念の規則的な拡張(規制された外延(その概念を適用してよい事物の全範囲))によって、意味効果または対象指示効果の「別の法」を書き込み、「形而上学的な意味でのエクリチュールとその外との関係」を書き込む。
対象指示効果:
事物の先在性、実在、客観性、本質性、現実存在、感性的ないし叡智的な現前性一般、などなど
その外:
歴史、政治、経済、性といった外
(引用、終わり)
つまり、私が一つ前の記事に書いたことをこのページでもう一度説明している。
架空の物語だった第五歌までの歌を、第六歌では読書に話しかけるようにしてぶっちゃける。
その瞬間、読者は夢想の世界から現実へと引き戻されるわけだ。
そのことを、「前テクストとテクストとの対立を転位させる」と言っている。
(転位: 今までの所から位置が変わること)
それはつまり、「パロディによって、分析と総合という二つの場所を、逆転させる」という風にデリダには見えている。
「分析と総合」とは、第五歌までの構造であり、数学の思考に由来する。
例えば、「毒とは〜であり、」というのが分析で、「〜だからつまりこれは毒である(察し)」というのが総合。
何だかなぁ。
ここまで散種を分かっている哲学科の大学教授って、果たして日本に何人いるんだろうな。
まあ、0人ではないだろうけど。
でも、この叢書ウニベルシタスから出ている散種という本だって、他の出版社では翻訳されていないし、叢書ウニベルシタスでも廃版になりかけては再版されっていう感じ。
それに、散種に関することを書いた本が、日本では殆ど出ていない。
それらを鑑みると、散種を理解している日本の大学教授は極めて少ないのだと思わされる。