龍神祝詞を捧げてみることにした。

不思議な魅力を感じる町なのに、行ってみたら陰湿な人間が多かったという場合は、そこの場所の気が枯れかけており、そこに住む神々の力が弱っているのかもしれないと思った。

例えば、目黒のドレメ通りや、横浜の元町などは、私がよく「民度が低い」と批判した場所だ。

私は乳児の時にドレメ通りにある雅叙園マンションで過ごしたので、一方では大切な場所でもある。

なので私は、その町の稲荷神社やキリスト教会に、龍神祝詞を捧げることにした。

もちろん、その場所に出向かずとも、今はネットでその神社や教会が写真で載せられているため、PCのその写真を前にしながら、龍神祝詞を書いたメモ帳(.txt)を音読した。

 

なお、ドレメ通りの坂にある稲荷さんは検索しても画像がなかったため、稲荷さんの鳥居があるであろう所が推測できるような、つまり、稲荷さんがギリギリ写っているような写真の前で龍神祝詞を唱えた。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/f0/8e3ab1fe1e7d01f2b49a918a2821f3c8.jpg

(この画像の電信柱に「スタジオなんとか」と書いてあると思うが、その裏に稲荷さんの鳥居があって、その中に祀られている。)

すると、唱え終わったその瞬間に、私の身体から出た何かのエネルギーがシューッっとその稲荷さんのあるであろう場所に吸い込まれていくような感じがした。

 

これを機に、龍神祝詞を捧げることは何らかの効果があると思い込んだ私は、次に元町や山手、フェリス女学院高校にあるキリスト教会(カトリックプロテスタント両方)のキリストの像の写真に向かって、日本語で龍神祝詞を捧げた。

すると、身体が何となくムズムズして来て、本棚にある聖書を取りたくなった。

聖書を開いたら、そこには正義と善に生きることへの大切さが書かれており、正義と善に生きていないと神に見放されてしまう、というような主旨のことが書かれており、これを書いた人は今私がFacebookの記事などで善に生きるべき理由を説いているのと同じ気持ちで書かれたであろう内容が、書かれていた。

聖書のその部分を読んでいる時は、何だか心地よかった。

 

キリスト教は、「主を畏れなさい」だなんて言わない。

「主を畏れる人たちよ、主を信頼せよ。そうすれば必ず報われる。」(シラ書2.8)

「主を畏れる人たちよ、主が賜るすばらしいこと、すなわち、永遠の喜びと憐みを待ち望め。(主は喜びに満ちた永遠の賜物を報酬として与えてくださる。)(シラ書2.9)

私が偶然開いたページの「シラ書2章」はマジで重要なので、キリスト教徒の方は必ず読んでおくこと。

そこには、主とともにあるためにはどうやって生きるべきかが、簡潔に書かれている。

主というのは神のことであり、我々の魂はそもそもその神の一部なので、「主とともにあれ」というのは神の意志に同調して下さいという意味。

ちなみに、「たとえ屈辱を受けても我慢せよ」というのは、この聖書が書かれた当時は今よりも無学で喧嘩っ早い西洋人が多かったから、「屈辱を受けたら一旦冷静になれ」という意味で書かれたものを思われる。

屈辱を受けるのは、自分の心にもそういった加虐性があるからこそ引き寄せの法則でそういう人間を引き寄せているだけなので、もうその学びは済んだのだから、あとは冷静になって神に同調すれば自然に解決できる。

 

そして、その後うちの母が偶然、月の光が部屋の中に入って来ていることを感じた。

何の気なしに見てみると、今日は綺麗な満月だった。

今日はハーベストムーンというそうで、他の満月に比べて光の「青さ」がはっきりと濃く見て取れた。

 

 

↑文字数が偶然1500字ぴったり。

エンジェルナンバー1500は、「前向きな思考とアファーメーションで、変化に対する恐れを克服しましょう」だそうだ。

アファーメーションの部分は、祝詞を唱える行為に重なる。