デリダによる、多義性と散種の違い。
まず、記号と意味の関係について考える。
記号とは、例えば「war」という単語のこと。
対して、記号の意味とは、「war」という単語が英語で「戦争」、ドイツ語で「~だった(Seinの過去形)」などという複数の意味を持つこと。
「多義性」は、その記号が複数の意味に還元可能なこと。
「散種」は、その記号だけを見れば還元可能な意味を持つが、それでも文章がめちゃくちゃな場合、その記号を使っためちゃくちゃな文章では、その記号が意味に還元不可能となる。
例えば、「he war」という文章は意味不明なため、そこで使われている「war」が「戦争」なのか「だった」なのか「それ以外の意味」なのかが分からない。
よって、結局、文章中のその記号は意味に還元不可能となる。
つまり、散種とは、記号単体としては複数の意味があっても、文章中のその記号が意味に還元不可能なこと。
なぜなら、そこに意味なんてないから、ということらしい。
ちなみに、「記号=シニフィアン(思考するもの)」、「意味=シニフィエ(思考されたもの)」と置き換えても良い。
ただ一つ言っておくが、もしも下記のサイト↓、もしくはそのサイトの元ネタである東浩紀氏の本が間違っていたら、上記に書いたことは間違っている。
たとえそうだとしても、それも仕方ないと思う。
デリダの「散種」という本は、そもそも他人に理解してもらうことを前提に書かれておらず、自身の詩的な文章力による芸術性を出したために、肝心の分かりやすさを犠牲にしている気がするから。
https://conception-of-concepts.com/philosophy/general/azuma-hiroki-ontlogical-postal/
私は今まで、他人の頭の良さに期待していたが、ここまで難解な哲学書の場合、もはやその解釈を他人に期待してはいけない気がした。
もうはっきり言うが、散種という本自体が散種な気がする。