(Facebook投稿記事)
昨日はキニャールさんが夢に出て来て、一緒に本屋と図書館を巡りました。
言語さえ通じれば、彼とは友達になれそうな気がします。
さて、今回は思考によって死の境界に出会うという話です。
冒頭では、ラコルディス王が司祭に「先祖は今どこにいる?」と聞き、「洗礼を受けていないので地獄にいる」と答えられ、王は「ならば私も地獄へ行こう」と言ったのち、4日後に死ぬ、という話から始まります。
この話により、人は思考によって死を選ぶことの出来る生き物であるという仮説が生まれ、そこから哲学的な話が膨らんでゆきます。
そして、キニャール曰く、人はアポリア(思考で解決できない難問)に出会うと、根源的な涸渇、不毛な乾燥状態となり、何かが引き寄せられるのを待機している状態になるのだといいます。
その理由は、ポロスとは元々、水路、通路を意味する言葉だったからだそうです。
(ポロスにアが付くと、アポリアという言葉の語源となり、ポロスとは逆の意味になるから。)
人がアポリアに出会うと、心に不均衡が生じて躍動が生まれるとのことです。
なぜなら、「思考は、考えるのが難しいものを愛するが、それは難しければ難しいほど放り出せなくなるからだ」と後に述べている通りです。
それは仮令解決できなかった難問だったとしても、思考遊びに至るとその時点で快楽が芽生えるのです。
そのことを、木々に水が通って枝先が伸びることや、冬が終わって花々が一斉に開花すること、つまり、春の到来に例えています。
ちょっと難しいですが、ここは理解が追いつくまで何回も読んで頂きたい部分です。
(引用、p.38)
重力を無化する力とは、そしてまたアポリア、飢餓、喉の渇き、欲望など、サイフォン内部で突如として吸引を始める力とはどのようなものか。液体を管の先端に送るのは圧搾空気ではない。それは流体自身に突如として生じる不均衡なのである。突然の不均衡がメタファー(事物から事物への輸送)に躍動をもたらす。転移をになう言語においても事情はおなじである。転送、同期、春はたがいに結びついている。樹液全体がいちどきに葉をひろげるのも、花々の開花が一斉に生じて同期するように見えるのも全部おなじことであり、同期は驚嘆をもたらし、これを肌で感じる者の目には、大地がさしだすもっとも美しい光景に見えるのである。
われわれの目もそこから生まれ出てきたわけだから、たしかに光景は美しく見える。
すべてがそこから生まれ出る、だから、毎年、春の到来とともにすべては生まれ変わるのだ。
(引用、終わり)
更には、p.93に入ると「思考のために死ぬことだってあるのだ」と出てきて、この時点でこの本のタイトル「死に出会う思惟」という意味と、冒頭のラコルディス王の話が一致します。
また、p.160では「肉体は獣的裸性、精神は文化的言語」と言い、肉体的なものと精神的なものを分けます。
まるで、霊肉二元論が前提にある論説のようです。
また、下記のことも重要なので引用しておきます。
(引用、p.193)
真理はあなた方を自由にする(Die Warheit wird euch frei machen)。フライブルク大学の建物正面の赤茶けた壁に、十年ごしに金文字を新たにして刻み直されるドイツ語銘である。だがとんでもない、真理はわれわれを自由にはしない。プシュケーの奥底は錯乱状態にある。言語活動の基底は、魂の基底とおなじく、さまざまな錯乱、飢餓、欲望、夢、死せる者たちの亡霊、嘘、理解不可能な他者性、習得、依存の数々を組み合わせる。
(引用、終わり)
つまり、キニャール曰く「プシュケー(魂)の奥底は錯乱状態にある」とは、我々が生まれる前の胎児としての世界が錯乱状態にあることを言っています。
人は皆、生まれる前の状態は胎児として母の胎内にいるため、彼はそれを第一世界と呼んでいます。
そして、生まれた後の世界のことを「失われた母」と呼び、第二世界とも呼んでいます。
また、全ての人類の祖先である一番最初の人間が誕生した際にも、胎児(第一世界)と失われた母(第二世界)を通過して来ています。
そして、完全に外部のものをシャットアウトして思惟に耽ると、起源としての第一世界を少し思い出すそうです。
それが、彼の師レヴィナスが信じていた、正統派ユダヤ教の教義に繋がることを仄めかしているのです。
ただ、そう言い切ってしまうと反論があるかもしれません。
確かに、キニャールのこの話は一見すると、遺伝学的に最初の人類が誕生した際のことを言っているように見えるため、唯物論的に思えるかもしれません。
しかし、もしそれが遺伝学での意味で述べているのだとしたら「最初の人間」という発想はおかしなことです。
なぜなら、進化論で言えば、最初の人間などいなくて、類人猿からだんだん今の人間の形に近づいていったということになるので、最初の人間の懐胎などというものはなく、人間の前は猿であり、猿の前は魚であり、その更に前まで遡ればただの浮遊する遺伝子の塊だった、(また、猿と人間の間は類人猿だった、)ということになるからです。
キニャールのその他の本では、小説になっているのものは全て、主人公が死んだ恋人の幽霊と会話するシーンが出て来ています。
これらのことを踏まえれば、キニャールは決して唯物論者ではなく、むしろ社会に蔓延する唯物論を真っ向から否定するために立ち向かう存在であることが考えられるでしょう。
彼にとってのその立ち向かう方法は、瞑想にも似た思惟なのです。
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