(スマホのメモ)
散種 序論 p.24~p.52
序文(プレファス)と序論(アントロデュクシオン)は区別される必要がある。
序論は、書物の論理といっそう体系的な結びつきを持つ。(歴史的でなく、状況的でない結びつき。)
(序論は、書物の論理の中にある。)
序論は統一的であり、本質的な問題を扱う。
そして序論は、一般概念をその区分や自己差異化において提示する。
(序論は、一般概念を区分けしたり違いを表わしたりする。)
反対に、序文はもっと経験的な歴史性に関わりを持ち、状況的必然に応じる。
(序論は頭の中の論理。しかし、序文は経験則から発生し、状況によって変わる。)
序論もまた、消滅しなければならない。
ヘーゲル:
哲学とは、哲学の完成された論考のみが、哲学の概念の証明、その概念の発見である。
したがって、序論は哲学という学の概念から、哲学史の対象の概念から、始めなければならないが、この序論でいわれることは、前もって定められるべき筋合いのものではない。
論理学が補助定理を必要としないのは、論理学は概念的思考に始まり、概念的思考に終わらねばならないからだ。
(論理学は概念による思考から生まれて終わる。なので、それ以外の定理は必要ない。)
論理学の究極の獲得物は、学問性の概念。
しかし、論理学はこの学問性について、始めは何も知らない。
論理学の対象は、概念把握し、自己を思考する限りでの思考それ自身。
自らの内容が、自らの最終成果である。
しかし、論理学が「導入部」において既に内容の境位の内に存在するためには(他の学からの形式上の規則を借用せずに済むためには)、論理学の最終的な獲得物(学問性の概念)が既に前提となっているのでなければならない。
(論理学が、どういうものなのか導入部で設定され、その導入部がその設定の中にあるようにするには、学問性の概念が前提となっていなければならない。)
つまり、学問性の概念が、最初に、抽象的に、告知されているのでなければならない。
(学問性: 可能な限り主観性を排し、一切の教義を捨て去ること。)
ヘーゲル:
論理学の対象である思考(概念把握思考)も、本質的に論理学の内部で取り扱われるものである。
論理学の概念はその行程の中で生み出されるものであって、先取りされ得ない。
序論は内容の外部に留まるため、序論の論理的性格を否定。
論理学の序論は、理屈と歴史の水準でいくらかの説明を加えて、この学がどのような観点から考察されなくてはならないかを、いっそう明確に思い描けるようにすることが目的。
補助定理主義、数学主義、形式主義の土俵で、上記↑の誤りは避けて通れない。
記号の先走りは、そもそも自分自身に先駆けており、そのテクストにおいて意味の事後性によって予め決定されている。
記号の先走りと、意味の事後性とが、補助定理主義・数学主義・形式主義の中では同質的で連続的なのだ。
序文、プログラムといったものは存在しない。
あるいは少なくとも、およそ一切のプログラム(前もって書かれたもの)は、既にプログラム(グラム=書かれたもの)なのであって、テクストによる外部性そのものの取り戻しなのだ。
今日、序文が容認出来ないものに見えるとしたら、その理由は、もはやいかなる先頭によっても、先取りと要約とが合流し、相互移行することが許されないから。
我々は意味の飽和が不可能であることを知っているし、記号の先走りは制御不可能なはみ出しを導き入れるし、意味の事後性も目的論的先取りや前未来の安心させる秩序の中でもはや反転することがない。
なので、今日、一つであるような序文を企てることが滑稽なのである。
空虚な「形式」と「意味」の充溢との間の隔たりは、構造的に手の施しようがない。
形式主義も主題主義も、そうした構造を支配する力を持たない。
書記的なもの、またはテクスト的なものの一般化は、意味の地平が差異もしくは複数性を包含するときにさえ起こる、意味の地平の消滅(あるいはその書き込み直し)に起因する。
多義性以上であると同時に多義性以下でもある散種は、多義性から自らを引き離すことで、意味の事後性を起源に変える循環運動を遮断する。
(事後性=物事が終わった後。序文で提示された意味の先取りは、事後性を帯びている。その事後性が起源に変わり、起源がそこなので本文内容ではその序文の通りに書かれている、といった循環を、散種は遮断する。)
形式主義、数学主義、科学主義は、常に哲学者が犯す間違い。
これと対照的に、経験主義、直観主義、予言主義も間違い。
これらは、衒学の学問性ばかりでなく、学問性一般をも軽んじるから。
共犯関係にあるこれらの相反する過失は、序文をお気に入りの場所とする。
しかし、ある再標記(序文についての序文、序文内の序文)の過剰に従って、この共犯性の仮面を剥ぐ仕事は、やはり序文に帰される。
そこにあるのは、「死せる空間と死せる一」の全く他の書き込み直しであって、それは全く他のものでありながら、だからこそ大変よく似ており、ヘーゲル「精神の現象学」の序文を二重化する。
思弁的弁証法は、形式と内容の対立を乗り越えなければならない。
それは、学とその反対物との対立を、学問的に把握しなければならない。
形式主義の三重性は、図式または一覧表の中に凝固させ、概念の生から根こそぎ引き離すことが出来る。
この形式主義は、図式に属する一つの規定が述語として立言されれば、述語が無限に増やせてしまい、どの規定や形態も他のものによって再び形式または図式に属する契機として使用されることができ、相互性の循環となり、これでは事象自体が何であるか経験されないし、ある事象が何であるか、また他の事象が何であるかが経験されない。
一方で、主観、客観、実体、原因、普遍者といった思考の純粋規定は、強さや弱さ、膨張や収縮といった用語などと同様に、よく吟味されずに無批判に用いられている。
従って、感覚的表象と同じく、このような形而上学も学問的ではない。
思弁的弁証法はこのような死の三重性よりも、生の三重性の方を好む。
数の他なる実践である散種。
二項対立(善と悪、薬と毒、叡智的と感性的など)は、抗争的で序列化された領野を組織する。
三は、ある戦略的な再標記の効果を与えるだろう。
この再標記は、位相と見せかけとによって、二項のうちの一方の名を対立の絶対的外部へと、差延の発表の中にもう一回余計に標記されたあの絶対的他性へと連れ戻す。
形而上学の囲いは、全く他なる分割の形象を取る。
散種はある種の折り返しの角に即して、存在神論の三を転位させる。
あれらの標記はもはや二項対立のニへと要約されたり決定されるがままにならないし、思弁的弁証法の三へと止揚されるがままにもならない。
あれらの標記とは、差延、グランメー、痕跡、切り込み、境界・画定・境界・除去、パルマコン、代補、婚姻=処女膜、標記・辺境・余白。
こうした標記は、三位一体の地平をテクスト的に破壊する。
つまり、これらの標記は、シニフィエの概念ないし内容によっては、いかなる点にもピン留めされるがままにならないがゆえに、散種の標記なのだ。(多様性の、ではない。)
そうした標記は、シニフィエの概念ないし内容に、第四項という以上あるいは以下のものを付け加える。
境界を画定=除去し、書き込み直し、引用し直す。
こうした語り=再引用のエクリチュールは、三角形の内容にも外部にも属さない。
このことの帰結は、測り終えられていない。
去勢の概念は、空虚、欠如、裂け目等々は、シニフィエとしての価値を、また、超越論的シニフィアンとしての価値を受け取ってきた。
つまり、ロゴスとしての真理(覆い・非覆い)の自己現前化という価値を。
エクリチュールのかぎ裂き、つまり、痕跡。
それが、意味によってもどのような形態の現前によってももはや鉤留めされることのない場。
これを散種は終わることなく開く。
意味作用の運動ならば痕跡の戯れを規則正しく結合し、そうして歴史=物語(イストワール)を生産することになるような地点、これを散種はベッド(lit 結合の床)において取り扱う。
法の名において差し押さえられたこの地点の安全が吹き飛ぶ。
散種が始まったのは、少なくともこの吹き飛ばしの危険においてであった。
そして、エクリチュールの迂回もこの危険から始まるのであり、そこから我々が戻ることはない。
序文は長めの題名に過ぎないのでなければならない。
序文は補遺という単語をはっきりさせるだけに留まらねばならない。
思弁哲学は、空虚な形式や記号の先走りとしての序文を禁ずる。
にもかかわらず、意味が序文において自分を予告する限りにおいて、つまり序文が書物の中に既に巻き込まれている限りにおいて、思弁哲学は序文を課す。
この矛盾は必然的にヘーゲルのテクストにプロトコルの痕跡群を、エクリチュールの塊を残す。
しかし、序文の終わり(歴史=物語の終わりにして、哲学の始まり)において、概念のアプリオリ性の領野がもはや限界を知らなくなる時、この矛盾は運び去られてしまう。
序文の終わりでは、同一論理と異種論理が思弁的命題の中で結合する。
研究は、素材を細部にわたってわがものとし、その様々な発展形態を分析してそれらの内的な結びつきを発見することを任とする。
古典的な狭い意味でのテクストと、実在との関係が賭けられている地点に今我々がいる。
新たなテクストは、テクストの古典的表象を無限にはみ出す。
このはみ出し、この境界・画定=境界・除去は、ヘーゲル論理学との、そしてそこに集約される全てのものとの我々の関係の形について、読み直しを迫る。
哲学的概念から見た、徹底的な他性へ向けた不法侵入(こじ開け)は、哲学では常にアポステリオリ(経験に基づく後験的なもの)と経験主義という形式を取る。
(他性へ向けた不法侵入は、経験主義の形式を取る。)
しかしそれは、自己の外を記載(理解)するためには、その否定的な像を同化するしかない哲学の、その鏡面反射(思弁的反省)の一効果である。
(しかし、他性へ向けた不法侵入は、他性を理解するために、他性へ向けた侵入と理解を一緒にするしかない哲学における、反射的な思弁的反省の一つの効果である。)
散種が書かれるのはこの鏡の裏であって、自己の転倒した幽霊の上にではない。
(散種は、このような思弁的反省はせず、その元となっている部分に書かれる。つまり、他性の根幹部分に。)
マルクスは序文を書くとき、形式的な先取りを避けた。
いずれにせよ、序文形式は、書物の論理的アプリオリ性やその叙述の中に、もはや容易に内化されるがままにならない。
(序文の形式は、先験的なものの内部には入らない。)
こうして、大論理学への追伸の、非対称的空間が浮かび上がる。
無限に差異づけられた一般的空間。
この空間は、どの追伸もそうであるように、表面上従属的で派生的であるが、起的家内性のいかなる円環的再理解(再包含)にも抵抗する。
⭐︎p.50
ヘーゲルが序文に失格を宣告する理由(その形式外部性、その記号の先走り、意味や概念の権威に囚われないそのテクスト性などなど)の中に、エクリチュールの要請がある。
序文は必然的なもの、構造上際限のないものとなり、思弁的弁証法の用語(諸項)の中で、もはや記述されることは出来ない。
それは単に空虚な形式、空っぽのシニフィアン性、非概念の純粋な経験性であるが、そればかりではなく、全く他なる構造でもある。
意味、概念、経験、現実といった諸効果を、それらを書き込み直しつつ説明する、いっそう潜勢力に満ちた構造なのである。(かといって、この書き込み直しつつ説明する操作は、理念的(把捉)による包摂ではない。)
散種に序文はない。
それは、今までの序文とは反対に、レトリック、形式主義、主題主義の本質的かつ共通の限界を、それらの交換体系の限界とともに標記するためである。
一方で、序文は排斥されるが書かれなくてはならない。
自己を前提しないわけにはいかない概念の論理の中に統合され、そのテクストが抹消されるために。
テクストは外を肯定するのであり、思弁的操作の限界を標記し、思弁が外を我有化する際のあらゆる述語を脱構築して、それらを効果へと導き戻す。
テクストは、内部性あるいは自己同一性の、開閉の諸効果の他なる配置である。
これらの場合においても、序文は一つの虚構である。
虚構は意味に奉仕しており、真理は虚構の真理となっており、虚構の関係物はある位階秩序へと整理され、概念の付属品として自分自身を運び去り、自己を否定する。
他方の場合は、あらゆる模倣論の外で、虚構は自らを見せかけとして肯定し、更にこのテクスト上のふりの作業に基づいて、書物の目的論が暴力論に虚構を従属させなければならなかったときに用いていた対立の全てを解体する。
(p.52)