(スマホのメモ)
散種 p.52 マルドロールの歌〜
マルドロールの歌「第六歌」は、実質的作業として自らを提示する。
分析的部分を企てる目的で書かれた。
これら(第六歌の冒頭)は全て、序文の終わりであり、黄昏時に生と死の間で起こる。
そして、今日という日の終わりに立ち昇る。
それは、テーゼの最初の展開となる。
「分析」と「総合」という二つの数学的証明様式の対立を弄ぶために、それらに依拠しつつも、それらの場所をパロディによって逆転させる。
そして、悪循環の拘束とトポスとを、それらと格闘させることによって、再び見出す。
主題、テーゼ、結論についての言説である序文は、発明されたものを分析する本文(テクスト)に先行している。
読解不可能に留まる恐れなしには、自分自身を提示(現前化)または教示できない分析的テクストに、序文は先行している。
序文が方法序説・詩学の叙述・形式の規則の総体になるのは、準備行程なしに自分自身を切り開き構築する道として実践された方法を、不意に踏破した後になってからである。
そこから、十分に自然なものとは見えないだろう序文の術策が生じる。
それは単に抹消されたものにはならない。
序文は、新たな小説のもう一つ別の序文の中で、自らを再起動させる。
その後に証明=実演が続く。
その後は、真理の方ではなく、序文と主テクストとの境界がそこで混乱してしまう、全く他なるトポロジーに従う。
散種は毒を蔓延させ、四角形を構築し直し、石を分析し、マルドロールの歌の柱や格子、分岐や簀子(すのこ)を横切りつつ、更に模倣論の別名である「存在-洞窟論」のまるまる全体をも転位させる。
それはつまり、ミメーシスについてのある解釈を転位させるのである。
ミメーシス:
- 芸術における模倣。 自然はイデア(事実の本質)の模倣である、とするプラトンの論や、模倣は人間の本来の性情から生ずるものであり、諸芸術は模倣の様式である、とするアリストテレスの説が源にある。
- 他者の言語や動作を模倣して、そのものの性質などを如実に表そうとする修辞法。
第六歌は、先行する歌たちを論証的な序文(詩法、方法論、教育的説明)という過去へと追いやることになる。
先行する歌たちは、実践であると同時に分析的でもあるテクストに属さないことになる。
だがこの図式はひっくり返りもする。
同じ方法で前テクストとテクストとの対立を転位させる。
テクストと、それを現実という形ではみ出すように見えるものとの間を通る境界を、この図式は複雑にする。
散種は、テクスト概念の規則的な拡張(規制された外延(その概念を適用してよい事物の全範囲))によって、意味効果または対象指示効果の「別の法」を書き込み、「形而上学的な意味でのエクリチュールとその外との関係」を書き込む。
対象指示効果:
事物の先在性、実在、客観性、本質性、現実存在、感性的ないし叡智的な現前性一般、などなど)
その外:
歴史、政治、経済、性といった外
第五歌の終わりで蜘蛛の話が出てきて、読者は現実へと戻される。
あなた方はここで一つの書かれたものを読んでいるのであり、こうしたことの全ては、自己を一つの織物(テクスト)の中で生産しているのである。
歌たちの一般的織り目において、互いに異質な「二つの外在性」が継起(引き続いて起こる)し合い交替し合っているように見えるが、それらは最後には標記(目印として符号を書くこと)の場全体を覆い尽くすに至る。
一つの表題、一つの書き出し、一つの銘句、一つの前口上(プレテクスト)、一つのほんの萌芽…これらの登場が初登場(デビュー)を為すことは決してないだろう。
そのような登場は際限なく散乱させられていたのだ。
実質的=現実的テクストが後に続く、最初の5つの歌全体は、テクスト外である。
現実へ突入する出口である第六歌とポエジーも、テクスト外である。
あるのはただ、いくらかのテクスト・テクスト外のみ。
全体として見ても、テクストについての表象=上演の裏をかく、つまり、テクストとそれを超過するものという紋切り型の対立の裏をかく、やむことのない序文があるのみなのだ。
散種の空間は、複数的なものを沸き立たせるだけではない。
「以上」の決定不可能な統辞法の中に標記された、終わり=目的なき矛盾によって、この空間は自らを揺り動かす。
「以上」の決定不可能な統辞法が実践的に探究されれば、「実際にこれ以上に現実的なものはなかった」という文を我々が読み直すきっかけが与えられるかもしれない。
こうしたことは、イデオロギーの問題を、どのようなやり方で練り直す時にも不可欠のプロトコルである。
現実(歴史、経済、政治、性などなど)の因果関係の場として参照される場の中への、個々のテクスト(ここでは狭く領域的な意味でのテクスト)
こうしたこと:
決定不可能な統辞法を実践的に探究すること
事物・指示対象・現実・概念や意味の最終審級に、自らのテクストを関係づけていた素朴な開けは、理論の練り上げによって極めて慎重に宙吊りにされるか、複雑にされなければならない。
外部にエクリチュールを性急に接続しようとして、或いは一切の観念論と手っ取り早く縁を切ろうとして、最近の理論上の獲得物を無視するようなことがあれば、そのたびになお観念論へと後退してしまう。
最近の理論上の獲得物:
あらゆる形の超越論的シニフィエに対する批判、エクリチュールのロゴス中心主義的・表現主義的・模倣論的な概念と実践を司る全てである意味の効果や対象指示の効果を脱構築し、転位させ、従わせること、間テクスト性の操作あるいは痕跡から痕跡への終わりなき回付から出発して、テクストの場を構築し直すこと、主題、実体、内容、感性的ないし叡智的現前性といった効果を、それらが介在する可能性のある至る所で、空隙化の微分的=示差的な場の中へ書き込み直すこと
(これらは全部マルドロール第六歌の特徴)
テクストの意味を他のテクストとの関連によって見つけ出すこと
観念論への後退は、経験主義と形式主義という形象の中で、観念論とつるむことしか出来ない一切のものを伴っている。
書物の再版の中で。
第一の統一体から派生した分身であり、似姿(イマージュ)であり、模造(イミテーション)であり、表現であり、表象である書物は、自らの起源(また模範)を自身の外に持っている。
(序文や序論、マルドロール第六歌みたいな書物。起源が、著者や読者や社会の方にあり、それを模範にした書物。)
つまり、事物そのものを持っている。
つまり、在るがままの現実(書物の外の世界)、もしくは記述し書く者(著者)によって知覚され、体験され、思考されるがままの現実、という存在者規定を持っている。
要するに、現前する(プレザン)現実か、表象(再現)された(ルプレザンテ)現実か、となる。
この二者択一自体が、先在する模範から派生したもの。
書物の模範・模範としての書物は、現前と再現前(表象)との絶対的合致、また、有限な認識が反省する以前にまず神の創造において産出されるような、そうした事物(神の創造物)とその事物についての思考との真理ではなかろうか。
再現前:
目の前にない過去の記憶が、脳内イメージとして頭の中で現前すること
中世では、神の書物である自然は、神の思考と言葉に適った書き物だっただろう。
神の思考と言葉:
話すと同時に自らが話すのを聞く真理であるロゴス、もろもろの原型の場にして叡智界あるいは天界への中継地でもあるロゴス、そうしたロゴスとしての神の悟性
表象的(再現前的)エクリチュールにして、真実のエクリチュールであり、模範と自己自身に合致しているエクリチュールである「自然」は、秩序立てられた一個の全体、読まれるべく自己を与える、意味を満載した一巻の書物でもあった。
表象的(再現前的):
知覚したイメージを記憶に持ち、その記憶を元に再度想像すること
読まれるべく:
悟性から悟性へと一つのパロールとして聞かれるべく、という意味
書物が神のロゴスを発する使命を負う時、眼は開く(クローデル)のである。
この想起(この引用)は「序文の問い」へと、「序文というテクストの二重の書き込み」ないし「二重の分節の問い」へと、もっぱら我々を導き入れるのでなければならない。
二重の:
一方では、何らかのロゴスないし論理学(存在神論や絶対知)を代表し表象する書物の中に、序文のテクストが意味において包み込まれるという事態、
しかし他方では、序文のテクストの外部性が残抗するという事態(この外部性はテクストの可感的な厚みではない)
(ロゴスや論理学に、序文は包み込まれるのか?あるいは、序文のテクストの外部性(読者や社会などと関わりのあるテクスト)が、ロゴスや論理学に包み込まれないように対抗する部分があるのか?)
この想起はまた我々を、種子として序文の問いへと導き入れるのでなければならない。
交差配列(キアスム)、これを散種の主題的意図だと手っ取り早く見なすことも常に可能だろう。
交差配列に従えば、序文は精液である限りで、種子的差延として残余する。
差延:
意識の現前性に回収されない、文字や痕跡の働きのこと。例えば、今使われている言葉と、その言葉の由来が違っていたら、そこに差異→遅延がある
(本文の要旨が産まれるまでの種子(精液)が、序文。産まれるまでの間の文章が種子的差延。)
すなわち、産出しつつ自分を消滅させる。
(本文の要旨が出たら、序文は消滅するから。)
そういったことがあると同時に、父の崇高さの中へと再適合される(所有され直す・固有化され直す)が侭にもなり得る。
(父親が本文、息子が序文。以下は、序文と本文の関係。)
自分の書いたものに付き添い、見惚れる父親。
自分の息子の保証人になる父親。
自分の種を支援し、引き留め、理想化し、再内化し、統御することに必死の父親。
序文は書物の序文の限りにおいては、そんな父親の言葉である。
父親と息子の間でのみ演じられる、自己-授精、同族-授精、再授精である。
ナルシシズムは法であり、法と一体となっている。
(こうした序文のナルシシズムは、序文といったら皆が使うような普通にあるパターンに入り込んでいる。)
プラトン的ボエーテイア(援助)の父性的形象が、尚も舞台を占領するだろう。
すなわち、プロレゴメナ(序論)は道徳的審級として提示=現前化され、パロールに再び命を吹き込む為にのみ書かれるだろう。
こうしたプロレゴメナにおいて、言葉は現在=現前において自己を宣言し、表明する。
しばしば序文は流派の声明文であった。
種子的差延の消去あるいは昇華(本文の要旨が出たら序文は消滅すること)は、書物外の残抗が大いなる書物の存在神論的なものの中へ内化され、飼い馴らされてしまう動きである。
(読者や社会などの外部性が、書物の中に吸収されて、書物の趣旨に沿った形で出てくる。)
全面抵抗の地点(ここでは、例えば「マラルメ」の名がその標記(めじるし)となる)は、同形異議の装いの下で、事後に運び去られてしまうことが常にあり得る。
同形異議語:
同じ綴りでありながら違う意味を持つ言葉
これもまた古い名の案件、名辞現象一般の案件、標記の偽の同一性の案件であって、散種はこの難問をその根幹において乱調させなければならない。
マラルメが尚も「書物」という古い名で企てていたことは、「たとえそれが現に存在しようと」、全く他のことだっただろう。
つまり、書物外だっただろう。
だがクローデルは後からやって来た。
散種の戯れは、しばしば彼を引用して出頭させる。
そして、散種が一語一語その記号を変えてしまっているだろうものの全てが、以下に集められている。p.68
p.70
有限な個々の書物は、神の偉大な作品をモデルにした小品ということになる。
それらはみな、停止した思弁であり、大いなる像を受信したささやかな鏡たちだ。(神の作品をコピーしているから。)
その理想形態は総合学の書(すなわち、あらゆる書物をその内容において要約し、復唱し、整序し、知識の円環を踏破する絶対の書)となるだろう。
しかし、真理は、反省や神の自己関係において、既に構成済み。(これを循環的という。)
だから、真理は自分が明白だと既に知っている。
だから、循環的な書物は、教育的でもあるだろう。
そのような書物の序文は、予備教育的。
百科事典は人間と神との類比的統一。(神学的本質と出所を持つ。)
それはモデル(模範)であり、規範的概念でさえある。
哲学的百科全書は、知の有機的かつ理性的な統一体であり、様々な内容の経験的寄せ集めではない。