散種 p.71〜ヘーゲル

(スマホのメモ)


散種 p.71ヘーゲル


ヘーゲルの序論、

「哲学は、(他の諸学が享受している利点、すなわち、)自らの対象が表象によって直接与えられているが故に、対象を前提することが出来るばかりでなく、出発点およびその先で使用する認識方法をも前提することが出来るという利点を奪われている」

(イメージの対象を前提できること、出発点やその先の認識方法を前提できること、それら利点が哲学では奪われている。)

そのため哲学は、自分自身の内部から、自らの対象と方法とを産出しなければならない。


哲学的百科全書は、知の有機的かつ理性的な統一体であって、様々な内容の経験的寄せ集めではない。

事前の説明が百科全書の円環(反省や神の自己関係において、真理が既に構成済みであること。つまり、読み進めるに従って真理が見えてくるのではなく、初めから真理しかないこと)に絶対的に先行するならば、その説明は外部に留まるのであり、何も説明しない。

それは哲学的ではなく、不可能に留まる。

反対に、事前の説明が哲学的円環の中に巻き込まれているならば、(それはもはや前置きの作業ではなく、)方法の実際の運動と客観性の構造に属している。

(つまり、序文や序論で、本文の事前の説明が書かれているとき、それが初めから最後まで真理しか書かれていないならば、それは百科全書のように、方法の実際の運動と、客観性の構造に、属している。)

自分を産み自分自身を享受する概念は、自らの序文を止揚し、自分自身に没頭する。(哲学とはそういうもの。哲学的円環)

百科全書=円環知は、自らを出産する。

概念の受胎(概念化)は、自己授精なのだ。


神学的な種子のこうした「自己への回帰」は、自分自身の否定性と自己への差異を内化する。

内化:その性質を帯びること

(神学的な種子、つまり、先ほど述べた百科全書の円環する部分は、自己への回帰であり、自分自身の否定性と、自己への差異の、性質を帯びる。)


概念の生とは一種の必然性であるが、この必然性は、種子の散乱を内に含み込み、理念の利になるように働かせることによって、それと同時に、その散乱から一切の喪失を、一切の運任せの生産性を締め出すような必然性である。

(概念が生まれるのは必然で、概念の生とは必然性である。この必然性は、種子の散乱を内に含む。)

排除は内包である。

このようにして抑圧される種子的差延とは対照的に、ロゴス中心主義の中で自己を自己に語る真理は、父に帰着するものの言説である。


プロローグ・プロレゴメナの、言わんと欲すること・予め言うこと・前に言うこと、として序文を問題にするとき、プロローグ・プロレゴメナはそのエピローグの最終幕から宿され(命を吹き込まれ)、布告される。

言説において、ロゴスは自己のもとに留まり続ける。

エクリチュール(前もって書かれたもの)・処方(前もって書くこと)・前口上(前テクスト)が、言説の生全体と外延を同じくしている。


ノヴァーリス「エンツュクロペディー」

この作品が初穂の状態で散乱するに留まったということ、尖った種子の周りに引き裂かれるに留まったということは、無意味なことだろうか?

書かれた書物としての全体的書物、という形式についての問いをはっきりしている。

網羅的で分類的なエクリチュール、知を秩序づけ分類するホログラム(完全に書かれたもの)は、文学的エクリチュールに席を譲る。

文字的なものも、書簡的なものも、その住処と生産領域を、このロマン主義的百科全書の生物学的な身体の中に見出すだろう。

というのも、「花粉」の著者にとって、書物の秩序は有機体論的であると同時に一覧的でなければならず、胚芽的であると同時に分析的でなければならなかったからだ。


もし序文がヘーゲルの大論理学の中央に、つまり、客観的論理学と主観的論理学の間に、あるいはどんな場所にでも挿入したとしたら。

あるいは、もし序文しか書かなかったとしたら。

それによって、どんな読解可能性も破壊されず、どんな意味効果も無効にならないということ。

その場合の序文は、本来の経路を持たない文字の残余構造をもつ。

それは目的地・宛先に届かない可能性が常にあるという事態が、その構造には属している。


詩は哲学技法の一部である。

哲学的述語は、あらゆる所で自己目的化を表現する、それも間接的な自己目的化を。


哲学は本来的に郷愁(ノスタルジー)である。

すなわち、あらゆる所で自分の家にありたいという憧れである。

だからこそ、自己への帰還における富裕化として着想された種子の哲学は常に実体論的であり、ロマン派的な隠喩主義や意味の深遠さの神話に依存している。

その哲学は、バシュラール科学的精神の形成」の中でスペルマと金について分析されるイデオロギーに依存している。

散種においては、いかなる神話的な汎スペルマ主義とも、いかなる錬金術冶金学とも、縁を切るものでなければならない。

フロイト「心理学における我々の暫定的な全ての概念は、いつの日か、有機的支柱の土台の上に据えられなければならない。」


ノヴァーリス:

プランは、題材の索引の結合定式である。

本文は、その実行である。

序文は、詩的な幕開けであるか、製本屋や読者に向けられた緒言である。

序文は、書物の使用上の注意を、読解の哲学を提供する。

銘句は、音楽的主旋律だ。

表題は、名である。

二重の表題と説明的な副題(表題の歴史)は、名の定義であり分類である。

百科全書主義的。書評、文芸、実験と観察、読むこと、書くことなどについての批判的形而上学を、私の書物は含んでいなければならない。


歴史それ自体が、前もって書かれて規定されている。

その展開、その不意の出来事、その不連続さえもが、この音楽的巻物の、一般低音もしくは作曲の理論でもあるこの百科全書の、調子を狂わせてはならないのだ。

そしてこのエクリチュールの一般的組織の中で、文学的なものもまた固有の一地方と生まれを割り振られる。

つまり聖書である。

一覧表の空間としてばかりでなく、自分自身を説明する、すなわち自分の発生と領分と使用上の注意とを残りなく報告しようという野心を持つ、種子的理性としての聖書である。


散種もまた自分を説明する=外に拡げる。

装置は自らを説明する=外に拡げる。

が、全く他の仕方によってである。

種子の異種性・絶対的外部性である種子的差延は、自らをプログラムへと作り上げるが、しかしそのプログラムは形式化出来ない。

(考えることによって同じイメージでも異なった意味を与えられてしまうが、それがイメージの元ネタ(種子)の異種性である。そしてそのイメージたちは、元ネタから派生しているので内部にはないため、絶対的外部性である。)

形式化できるいくつかの理由によって。

差延の掟、つまり差延の破裂、の無限性は、百科全書の円環における自己への現前の飽和した形式を取らない。

その無限性は、掟の代補の絶えざる失墜に起因する。

形式主義はもはや経験の豊かさの前に挫折するのではなく、ある一つの尻尾に直面して挫折するのだ。

その尻尾が自分を噛むこと(堂々巡りをすること)は、鏡像的でも象徴的でもない。


自然と書巻本との重なり合い、存在者の全体と百科全書のテクストとの音楽的同一性。

こうした命題は伝統的な隠喩(世界という大いなる書物を読むことなど)の旧来の地所へ舞い戻るように見える。

しかし、この同一性は所与のものではない。

所与他から与えられたもの

すなわち、書物なき自然は何らかの仕方で不完全である。

存在するものの全体が書き込みの全体と一体になるとしたら、それらが自然と聖書、存在と書物という別々の二つのものをなすことが理解出来なくなるだろう。

とりわけ、両者の合算の可能性と、両者の合接の場が理解出来なくなるだろう。

繋辞としての(書物は自然である)と接続詞のetのどちらかを、ここで選択しなければならないのではないか。

繋辞命題の主辞と賓辞とを連結して、否定または肯定を表わす語

主辞判断の対象となり、陳述がそれについて行われる概念

賓辞命題において、主辞について述べられる概念

そして、述語による結合が可能であるためには、ある沈黙した合接が書物と自然とを接続して、一つのまとまりとして考えることを可能にするのでなければならない。

estによる結合の意味は完遂ということであって、エクリチュールが自然を(反復するのではなく)補完しにやってくる完遂的生産性であること。


このことが意味するのは、自然はどこか不完全であるということ、自分がそうである所のものであるためには何かが自然には欠けているということ、自然は代補される必要があるということ、これである。

代補外から(後から)偶然的な補足物として追加されるものが、本体の中に侵入し、それに取って代わってしまうこと


自然が全体であるのだから、代補される必要は自然にのみ起こることである。

書物は自然に付け加わりにやって来るが(接続詞のetが示す加算的代補)、この加算によって書物はまた、自然を補完して自然の本質を完成させなければならない(繋辞のestが告げ知らせる、補完的・代理的代補)


図書館の囲いは、代補の論理(代補の書法)という蝶番で連結されて作動するのである。


たとえ書物が自然の重複物であるとしても、そうした見せかけによる複製において自然に付け加わる書物の出現(代補の出現)とともに、学問や文学のテクストは始まるのだ。

このテクストは、神的・論理的・百科全書的空間、すなわち敷居なき(婚姻=処女膜、なき)自己授精の空間の中で、常に既に構成済みの意味や真理を超過する。

散種はミメーシスとしてのピュシス(模倣としての自然)を揺さぶることによって、哲学を舞台に載せ直し(上演し直し)、哲学の書物を戯れの中に置き直す(作動させ直す)のだ。