レオ・レオーニ「平行植物」より、第7章「マネモネ」を自分で翻訳しました。

(Facebook投稿記事)

 

レオ・レオーニ平行植物」より、第7章「マネモネ」を自分で翻訳しました。

 

全て架空の植物について書かれた本であり、イタリア語です。
そして、「マネモネ」という言い方は、宮本淳さんによる秀逸な翻訳による名付けをそのままお借りした次第です。

 

事前知識として。
マネモネという植物は、明らかに人間の造った芸術作品を真似してその姿をしていると言われ、植物学会を騒がせたそうです。
また、平行植物なので地面に根は張っておらず、人が触れると霧散して消えてしまいます。
それはつまり、時間軸を縦軸と見ると、そこから自由になって生きているということから、時間軸の横軸に生えている植物ということで「平行植物」と呼び、その現象を「平行性」と言うそうです。
何気に深い話ですが、笑えますね。

 

さて、私はこのイタリア語の本をAmazonにて買ったのですが、それがたまたまエッセンシャル版だったため、原本に比べたら省略されている部分も多くありました。
省略されている部分は[...]という記号で書かれていました。

 

なお、現在、私は「平行植物」の日本語版を他人に貸しているためそれが手元にないのですが、それでも代官山の蔦屋書店にて少しだけ立ち読みした結果、どうやら宮本淳版はかなり的確に訳されていたようです。
宮本さんは英訳されたものを日本語訳したとのことですが、イタリア語原文と比べてみても遜色ない感じに見えました。

 

(以下、本文)

 

「7. Le artisie(レ・アルティージエ、マネモネ※)」
(※原文に忠実に訳すなら、職人草、芸術家草、など)

 

 新しい植物学の発展を追って来た人々の間で、最も困惑させられた平行植物は、間違いなくマネモネだ。[表11] 植物と平行植物の2つの植物について考えると、マネモネは非常に特別な位置を占めていると理解出来る。それは植物学的にとても曖昧な外観を持ち、時折、恐らく人間起源の有用性でさえ、彼らの主要な特徴となるのである。シャンバソーが初めてマネモネを見たとき、彼はうっとりとして叫んだ:「おお、ついに人間花を見つけた!」その植物の曖昧さは、哲学者でありアマチュアの植物学者であるテオ・ファン・シャーメンに付けられたその名によく反映されている。それはアムステルダムの動物園の入口の表玄関(ポータル)に飾られた、金文字の碑文に由来する:「アルティス・ナトゥラ・マギスタ」(自然は芸術の先生である)。一世紀以上前に、完全なラテン語愛好者としてこのフレーズを作り出した彼は、オランダ人がそれを短くして、最愛の動物園を「アルティス」と呼ぶとは予想出来なかっただろう。ファン・シャーメンがアントワープ会議でマネモネという名前を提案したのは、このばかばかしさへのオマージュだ。「それはまだ明らかではない」彼はその理由で書いた「その植物を人工物/自然物の二分法で分けるなら、その影響は芸術の上の自然か、もしくは自然の上の芸術として示される。もちろん、真実はそのどちらでもなく、その平行性を除けば、マネモネは全くの自然物であることを私たちは知っているはずだ。
しかし、18世紀の装飾的な渦巻きを模倣した、人工物にさえ見えるその明らかな模範的芸術性を持つ形態の謎を、どのように説明するべきだろうか?
 この現象を次のように説明した人がいる、「自然は芸術を模倣する」。1973年1月17日、芸術の年代記「オーロラ」が、このタイトルの記事を発行した。「サン・ジェルマンの美術館が席巻されたような抽象主義の新しい波に文句を言う人は、『植物園』のアトリウムに設置された小さな展覧会を見るべきだ。それは最近発見された魅力的な平行植物群である。ギスモンド・パスカン教授は、植物園の平行部門を担当した数ヶ月前、展示されている全ての植物が科学的に非常に興味深いものであると、私たちに説明した。私たちが彼女にどれが最も興味深いか尋ねたとき、青い布製のチャイナドレスを着た若い科学者は躊躇うことなく「マネモネ」と名付けられた小さな植物群を指して、その顕著な特徴を説明した。実を言うと、マネモネには本物の根が存在しないため、植物には見えないと思われるだろうが、まるで蚤の市で収集された、18世紀の使い古された燭台や額縁の魅力的な欠片のようなものだと考える必要がある。それらは間違いなく私たちを当惑させる現象であり、私たちの無知のせいで、自然が芸術を模倣しようとする狂った衝動に起因するものだと考えられてきた。」
 ギスモンド・パスカンがマネモネを徹底的に研究した結果、非常に異なる結論に達した。考察は、一見すると生物学的というよりも哲学的であり、生物学の研究を始める前に、ガストン・バシュラールロラン・バルトとの関係を反映すると思われる問いから始まる。パスカンがまず第一に観察したのは、群れの中の一人の人間というものは、自然の中にいる単体ではなく、自然に属しているということだ。そしてパスカンいわく、全体としてはその重要な要素である精神が含まれていなければならないとのことだ。「今日、人間を特徴付ける全てのものは」彼女は言う「その精神性も含め、それはランダムな突然変異によるサイクルの、進化の結果である;しかし、理論的には、複雑な組み合わせのゲームにおいて、これらの突然変異は再現可能でなければならず、理論上ではロットごとに約5回、いつでも再現可能である。」バルトハイムの仮説だが、彼によると、通常信じられているような単一の起源からの子孫ではなく、それは様々な時代に様々な起源から発展したものであり、私たちが知っているように、これらの前提に基づいている。[...]彼は、人間は他の突然変異よりも、突然変異の一つの類による、現在の一時的な結果に過ぎないと考えており、異なる組み合わせと時間は、他の自律的な生物と生命現象を生成した可能性がある。言い換えれば、バルトハイムは人間を、異なる織り込みによるモザイクと見ており、その全てまたは一部が、イメージによる無限の多様性を形作る可能性があるとしている。
 この理論は不思議なことに、非常に古い起源を持つダーウィン以降の進化論と、ある意味では結び付いている:実際、初歩的な原則を明らかにしたのはエンペドクレスであり、非常に奇妙なイメージでそれらを説明したが、それらは多くの劣った生物の形相に漠然と対応している。「まず」彼は言った「そこに髪の毛、目、腕、指があったが、最初は粗末なものだった。一部の生き物には腕に目があり、足に頭がくっついており、手に耳があった。そのような異常な生物は生き残ることが出来なかった―生き残ることが出来る生物へと発達するためには、無限の組み合わせが必要だった。」
 パスカンの想像力の見事な飛躍は、バルトハイムの理論を土台にして際立っていた。なぜパリの生物学者は、精神性でさえ、全体的または部分的に、他の状況ではそれが通常含まれる人間の外皮とは無関係に形成された可能性があるということを、除外するのだろうか?恐らく、コオロギや鳥の囀りは、人間の音楽によって最高潮に達する、偉大な進化の幹の側枝(そくし)に過ぎないと、彼女は論説する。それから、動物界から植物界へ移ると、パスカンはアラクネ・ルーデンスのような特定の花は、人間独自の真実を最も表現していると考える。
 この観点から見ると、自然の形と、人間の創造的な衝動により生まれる形との類似性は、今日、新しい意味を帯びている。「芸術/自然」というレポートによると、「人間の精神性の表われとしての芸術は、自然との外的対象の関係を持たないが、その精神性にその身体が不可欠なように、芸術の根源としての分野で考えなければならない。」とある。ここから、昨日まで驚くべき偶然と思われていたマネモネの現象の説明まで、その足取りは短い。パスカンが断言するに、マネモネは、一般的な形態進化の過程が、彼らの構成の一部を成しているという。それらはいわば横方向の時間を表わしているが、芸術的発展の共通の根(マトリックス)に関連している。