メシアンの鳥愛好と、十字架のヨハネの鳥解釈について。

(Facebook投稿記事)

 

メシアンの鳥愛好と、十字架のヨハネの鳥解釈について。

 

新約聖書のマタイ福音書にこのような記述があります。

これを読めば、メシアンが鳥についてどのような目線で見ていたのかが明確に分かるでしょう。

決して飾らず、人間のように富を求めず、常に神とともに生きる存在、それこそが鳥であると彼は認識していたのでしょう。

 

(引用、マタイ福音書)

 

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。(ルカ16-13)

 

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。(以下略)(ルカ12-22-32)

 

(引用、終わり)

 

また、16世紀スペインの僧である十字架のヨハネ(サン・ファン・デ・ラ・クルス)は、このような詩を書いています。

これは、同じキリスト教徒でもメシアンの鳥解釈とはやや違い、より静かに生きる感じがします。

 

(引用、十字架のヨハネ「孤独な鳥の五つの条件」)

 

孤独な鳥の条件は五つある

第一に、孤独な鳥は高く高く飛ぶ

第二に、孤独な鳥は仲間を求めない、同類さえ求めない

第三に、孤独な鳥は嘴を天空に向ける

第四に、孤独な鳥は決まった色を持たない

第五に、孤独な鳥はしずかに歌う

 

(引用、終わり)

 

なお、十字架のヨハネは、他人とはあまり関わらずに、殆ど神にのみ心を捧げて生涯を終えました。

聖書には、軍を率いて大勢と戦ったり、復讐を果たしたりするシーンがあります。

しかし、十字架のヨハネにとっては、恐らくそういったいざこざは既に過去にあったものであり、彼は今、静かにここに在ることだけにただ感謝して、人間との関わりを断ち、神とともに在ることに専念したのだと思います。

もちろん、メシアンの信仰心もかなり篤かったと思われます。

メシアンの曲の数々は、神への信仰が土台にある形而上の悦びを感じさせるからです。

しかし、メシアンの鳥の曲想は十字架のヨハネのこの詩よりも、少し賑やかです。

このことから、メシアンよりも十字架のヨハネの方が、よりキリスト教的な思想を持っていたものと思われます。