パスカル・キニャール「もっとも猥雑なもの」、読了。

(Facebook投稿記事)

 

パスカルキニャール「もっとも猥雑なもの」、読了。

この本にて、現在邦訳されている「最後の王国シリーズ」は全部読んだことになります。
私はいつも文系の本と理系の本を鞄に入れているのですが、この機会なのでしばらくキニャールからは離れようかと思います。(と言いつつ、また買ってしまうかもしれませんが。)
結局私は、キニャールの本は15冊読んだことになります。

 

「猥雑なもの」というタイトルから下品な内容ばかりを扱うのかと思いきや、さすがキニャールだけあって高尚な内容に昇華されています。

 

(引用)
アウグストゥス治下のローマ帝国の小説家アルブキウスは、人間が手がける虚構(フィクション)の対象となるのは、もっとも猥雑なものだと規定した。大セネカはアルブキウスに、もっとも猥雑なものの例を挙げてみよと言った。アルブキウスは、「犀、便所、海綿」と答えた。
(引用、終わり)

 

高尚なものや宗教的なものを良しとする世の中で、行き場を失ったこの低俗なものたちの住処が「小説」だったそうです。

 

また、この本を読んだことによって、キニャールの思想がより明確になりました。
まず、「往古の記憶が現在のあなたに根付いている」といった主張はキニャールの本には頻繁に出て来ますが、表向きはこの「往古」というのが胎内にいた時の記憶だという風に解釈されやすいです。
しかしながら、それはもっと深い意味を持っているようです。
というのも、往古とは恐らく、人間の遺伝をずっと遡っていった一番最初の胎内にいた時のことだと推測出来るからです。
胎内記憶は胎内記憶と書くべきであって、この途轍もない人間の歴史の中でたかが自分の生まれた時のことを往古(Jadis)なんていう表現を使うのは、いくらフランス語からの翻訳としてもおかしいと思っていたのです。
ちなみに、Jadis(ジャディス)というのは、「むかしむかし、あるところに」の「むかしむかし」の意味で使います。
私は今まで自分のこの解釈を正しいと断言することが出来ませんでしたが、今回のこの本にてより確信が得られたのは間違いないです。
例えば、以下のような記述がありました。

 

(引用、p.128)

誰もその不可視の顔を見たことがない先立つ存在。
お前は〈存在〉よりもなお広大で、〈存在〉を食い尽くすものだ。
ああ、お前自身は通過することはなく、通過するものの通過を可能にしているのがお前だ。
お前は、到来するものを到来させる。
お前は、現実を現にそこにあらしめる。
お前はもっともはかなく、もっとも執拗に残り続ける。
(引用、終わり)

 

これは、まさにキニャールのよく使う「往古」のことです。
「誰もその不可視の顔を見たことがない先立つ存在」というのは、人間がまだバクテリアか何かだった時、最初に生まれた生き物のその「親」にあたる存在のことだと思われます。
そして、その「親」というのは、ずばりヤハウェのことか、あるいはアダムとイブのことだと思われます。
この「神」についてどうしても知りたかったキニャールは、正統派ユダヤ教にて聖典とされる旧約聖書ラテン語原語で読む努力を重ねたのだと思われます。

聖書は、「真理を例え話で説明したもの」として。
また、彼は日本の能についても詳しいですが、皆さんもご存じの通り、能というのは「死者の幽霊と対話するシーン」がメインで出て来ます。
そして、キニャールが明言している通り、この小説の数々は歴史上の死者の魂を弔うために(つまり、成仏に導くために)書いているとのことです。
そう、キニャールはオカルト研究のために、血眼になって古文書を漁っていたのだと考えられるのです。

 

また、p.129にて「不能、死、沈黙は、真の深淵だ」とありますが、これは宇宙が誕生する直前まであった、何もない深淵のことを指しているものと思われます。
なぜなら、「沈黙」の反対は「言葉」だからです。
聖書の「初めに言葉があった」という通り、彼はこの宇宙を生んだ大元の神を信仰しているものと思われます。
正統派ユダヤ教徒と思われるキニャールは、時々キリスト教に対しては辛辣ですが、新約聖書の冒頭にある「初めに言葉があった」については認めているものと思われます。
ちなみに、もう言ってしまいますが、西洋哲学の「言語論」の走りは、聖書のその文言に由来しているものと思われます。

 

更には、日本の侍についてのこのような記述もあります。

 

(引用、p.129)
そのようにして、狩猟者も戦士も芸術家もシャーマンも女の音楽家も愛人も僧侶も詩人も、自己を滅却するに至る。彼らは自分たちの身体が求める動物(蒼白で、毛も生えていない、胎児の状態)に戻るのだ――あるいはむしろ、彼らは他者に戻る。彼らは人間の源流へと遡ったのだ。死のわずかな気配も感じ取れる状態を回復したのである。これが殺気という言葉の意味である。
(引用、終わり)

 

自己を滅却することで「自分が胎児だった頃に戻る」=「他者に戻る」とは、胎児が他者である母の身体と繋がっていた頃に戻るということでしょう。
そして、拡大解釈するならば、その母も胎児だった頃はその上の母親の胎内にいたわけであり、そのまた母もその上の母と繋がっていて、という遡りが出来ます。
こうやって遡っていくと、古代生物だった頃にまで遡り、更に上には歴史上初めての生物であるバクテリアか何かに繋がるでしょう。
このバクテリア(?)が最初に生まれる直前に、どこかの胎内的な場所にいたのは明らかです。
もっと言うと、物質以前の世界であり、この世が最初に誕生した際、「時間の親」という胎内に原初のものが入っていたと考えることも可能です。
しかし、キニャールは恐らく、この科学絶対主義をそこまで信仰していないでしょう。
ただ、もしビッグバンが起きてこの宇宙が誕生したとしても、宇宙の始まりの核は一つだったか、もしくは雌雄のように二つだったかになるかもしれませんが、その核が初めて生まれて来た際にも親的な科学現象があったはずで・・・
このことを簡単に言うと、スピリチュアルの「ワンネス」です。
宇宙は全てと繋がっている。

 

私は今、かなりラディカルに書きましたが、批判等はコメント欄に書いて頂いて結構です。
しかし、私が前にも言った通り、キニャールはパリ第10大学(現パリ・ナンテール大学)で学んでいた際、哲学者レヴィナスの弟子でした。
レヴィナスは、タルムードの研究でも分かる通り、正統派ユダヤ教徒だと考えられます。
ちなみに、レヴィナスの「全体性と無限」という本には、「魂の連続性が」という記述があり、輪廻転生のことを言っているのだと考えられます。
正統派ユダヤ教は、輪廻転生を認めますからね。
更に、私は「全体性と無限」を途中までしか読んだことがありませんが、その部分の文章(が書いてあるそのページの紙の一部)だけオーラが違っていて、ふわぁっと蕩けるような、スピリチュアルなオーラが出ていました。
そのため、レヴィナスの書籍を唯物論で読み解いて行くと、所々が意味不明になります。
(その意味不明な箇所をスルーしているのが現在の日本の哲学科教授たちです。)
その証拠に、キニャールの「約束のない絆」などの物語形式になっている書籍には、私が読んだ限りだと全てに「主人公が、死んだ恋人または配偶者の幽霊と会話するシーン」が出て来ます。
レヴィナスの忠実な弟子だったキニャールを読めば、レヴィナスの思想がすごく理解しやすいと思われます。

 

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784801002333