この番組。
http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/trailer.html?i=18771
今、テレビを見ていたけど、ペリーの黒船来航についてやっていた。
意外と日本はすごかった。
(そして、NHKはたまには良い番組をやるようだ。ちゃんとエビデンスとして、引用した資料の文章も表示しているのがいい。)
阿部正弘(若くして当時の老中となった人)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%BC%98
林復斎(外交における、ペリーとの対話に応じた人)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BE%A9%E6%96%8E
アメリカのマシュー・ペリー(ペルリ、伯里、彼理)は当時、船での航路の途中に「食糧・石炭などの物資調達をする場所」を求めていた。
しかし、航路上で物資調達できる場所がハワイしかなかった。
だから、その場所に日本が良いと思い立った。
それで、1853年に、外交をしようと黒船を4隻連れて、浦賀(現在の横須賀市)に到着。
その時、日本の対応は冷静だった。
なぜなら、およそ1年前から、ペリーが浦賀に来るであろうことがオランダからの情報で分かっていたからだ。
当時の老中阿部正弘は、初の外交官として林復斎を選任。
非常に頭の良い林は、外交資料をもとに、ペリーの弱点が「物資調達」であることを早くも察知。
そして、案の定日本にやって来たペリーが出した条件は3つ。
・船で遭難したアメリカ人が日本に辿り着いたら救助すること
・アメリカ船の物資調達
・貿易
林は、すぐさま「人命救助」と「物資調達」の2つを飲むと決断し、「貿易」については反対した。
なぜ貿易に反対したか?それは、貿易を許そうものなら、日本の中で反米派が暴挙に出ることが十分に考えられたからだ。
というわけで、今回の黒船来航はこの2つの条件で決定。
1年後、今度は横浜に黒船9隻を率いてペリーが再来。
ペリーが出した条件は、「日本にいくつものアメリカ船停泊地を作ること」だった。
しかし、林は1か所だけなら良いと答える。
しかしそれでも、ペリーは折れない。
そしたら林が、「前回来た時に書いた条約文には、希望停泊地が1つしか書かれていなかった」と反論。
ペリー、黙る。
そして、「軍艦を率いて江戸に上陸する」と脅しをかける。
林はそこで、「下田と函館の2つなら良い」と答える。
下田も函館も、江戸からは遠い。
そして、ペリーはこれを飲む。
日米和親条約の完成。
帰りに、ペリーの黒船に林ら日本人外交官を呼んでパーティーを行った。
そして、記念として1/4サイズのSL機関車を贈られ、幕府の人たちはそのおもちゃのSLに興味津々だった。
この外交で一番難しいのは、日本の反米派が内部争いを起こさないようにすることと、アメリカの脅しにどう対応するかの、ちょうど中庸を行かねばならない所。
阿部正弘は、アメリカの「脅し」には「論破」で立ち向かえるよう、大学頭(だいがくのかみ)で外交資料マニアの林復斎を登用し、来航の前から準備をしていた。
ちなみになぜ黒船が黒いかというと、防腐剤としてタールを塗っていたから。
ペリーは、当時の日本について、
・日本人は驚くほど器用で、学識が高く、貧富の差もあまり見られない
・日本人女性は周りから大切に扱われ、本人たちもそれを分かっていて気品を兼ね備えており、美しく、元気だ
などと、当時の日本を賛美している。