パスカル・キニャール「いにしえの光」p.170の一段落を、解釈してみた。
おそらく意味的にはこれで正しいと思うのだが、異論があるなら聞いてみたい。
ただ、異論どころかそもそもの話、こんな本は誰も知らないと思う。
ちなみに、キニャールが来日した際に、アンスティチュ・フランセ東京にて対談などの催し物をやっていたことがあるらしい。
それは、今はもうやっていないみたいだ。残念。サインくらい欲しかった。
しかし、アンスティチュ・フランセもキニャールを取り上げるなんざ、なかなかの文学通だね。
本当にフランス文学が好きじゃないと、こんなマニアックな本には辿り着かないよ。
そして、この本も難解だとか言われて敬遠されているのかもしれないが、難解なことは詩的文学の宿命みたいなものであり、審美的な必要に迫られてそういう文章になっているのだと思う。
そう、この詩的な表現がまたそそるのに。
(引用 p.170)
その水滴はあなたがたを凍らせるもの、
方解石の白い顔以外のなにものをも想起させない、輝く真珠、
凡庸さと欲求不満が絶え間なく噴出する彼方で、非‐所与を沸き上がらせる短い衝撃、
人類の記憶が長い時間をかけて作りあげた太古の鍾乳石の先端に凝結した未来、
幸福の守り神でないにしろ、あなたがたは不幸を虐待する守り神である。
(引用、終わり)
【解釈】
過去の思いが、あなたがたを思考停止させる。
その思いは、方解石のようにただそこに一つ在るだけで、それ以外は何も想い起こさせない、輝く真珠のよう。
(真珠の成分の一つが、方解石(カルサイト)。)
特に自身が優れているわけではないのに、欲求ばかりが募る。
その一方で、何かを思考している際の短い時間がある。
(所与:何かを思考する前に思いの種となっている潜在意識のこと。)
人類の先祖から受け継いだDNAに刻まれた本能は、長い時間をかけて今のわれわれの潜在意識に至っている。
そして、常にそのDNAの最先端に、今のわれわれはいる。
そしてそれは、幸福な記憶を守ってはくれないが、不幸な記憶を思い起こして嫌な思いをすることだけはできる。