以下は、私のFacebook投稿記事。

恐らく、こういう専門的で難しい話など、誰も読まないことが予測できるのがちょっと悲しい。

キニャール「いにしえの光」は、まだ読んでいる途中で、牛歩の歩みで半分まで来た所。

難しすぎる・・・

でも、瀕死から生還した作者が何を言っているのか知りたい、という欲望の方が勝つ。

だからこそ、一文一文、理解できるまで読んでいる。(同じところを5回、10回は読んでいる段落も結構ある。)

ちなみに、キニャールさんの顔は、目が怖い。

 

(引用)

 

「ユマ族によれば、歌とは、それ自身がみずからの身体のなかに別の身体を呼び込むための夢なのだという。」

パスカルキニャール「いにしえの光」水声社、p.156より引用。
これも読み終わったら、内容を小出しにしたレビューを書くつもりです。

(原文)

ユマ族によれば、歌とは、それ自身がみずからの身体のなかに別の身体を呼び込むための夢なのだという。ときとして、歌は夢による興奮状態の結果でもある。だとすれば、それは誕生に九ヶ月先んじて、歌い手に寄り添う子供の姿でもあろう。どんな歌(どんな夢)も次のように終わる。「私は故郷を去り、旅立つ。私は故郷を去った。そして世界を見、世界を語った」、と。それはつまりある場所についての物語、その場をかつて去ったという物語なのだ。それは狩りの物語に酷似している。また、カエサルによるあの単純な三つの過去動詞、来た(ウェニ)、見た(ウィディ)、勝った(ウィキ)にも酷似している※。私は来た、私は見た、そして今、私は語る。「われ勝利せり」が意味するのはほかでもなく次のこと、「私はその場面からの生還者である」という事実であり、その事実もまた、「私は物語の語り部である」という以外の意味をもたない。

※訳者註
ローマの将軍カエサルが紀元前四七年のゼラの勝利をローマに知らせるために手紙に書き送った言葉とされる。

(引用、終わり)

私からの註釈↓

ユマ族:おそらくアリゾナ州のインディアンの一。

誕生に九ヶ月先んじて:自分が胎内にいる頃、精子の入った卵子だった頃の魂のこと。輪廻転生により生まれてくる、という考え方によるのかもしれない。母親の胎内に魂がいるような仕組みで、歌い手に寄り添う別人格の魂がいることを想定している。

狩りの物語に酷似している:次の段落にて、「来た、見た、勝った」は、狩りでいう所の「捕食行為を描写するための位置取りと監視、そして襲撃をあらわす」と書いてある。

語り部:昔話や歴史などの昔の話を受け継いで語る人のこと。

「私は物語の語り部である」という以外の意味をもたない:歌という表現方法はみな、時間的には過去のことを歌詞で語っているから。