あ、論理思考能力の才能、あったわ。
それは言語能力(雄弁さ)とはまた違う分野なのね。
昔、誰にも理解されないのに自分一人だけにははっきりとした答えが心の中にあって、でもそれを言語化して説明することが出来ない、っていうことが結構あった。
親でさえ理解してくれなかった。
それは、社会人になってからも結構あった。
なので、その能力は社会に認められにくいっつーか、自分でさえも気付かなかったりする。
特に、私自身が何かを実験する段階にあるものなんか、未だに誰一人として理解してくれないことが多い。
なので、そこら辺も多分、発達障害(軽度のADHD)によって、使われなかった分の脳みそがそこに投入されていたんだろうなと。
私自身はずっと私の脳みそでしか生きて来なかったから、比較要素がないため全然自覚がないけどね。
ただ、今読んでいる宮岡礼子「極小曲面」のエピローグに書いてあったのは、「現代数学の研究者たちにとっては、この本のレベルではまだまだ至らない所があります」という趣旨のことが書かれていたので、それが本当ならこの本ですらまだまだ現代数学の入り口のレベルでしかないということになる。
ところが、私はこの本の第7章以降では、定理は理解出来たとしても証明の道筋までは理解出来ない部分がかなり多くなって来た。
なので、私には数学者になれるほどの論理力はないと思う。
少なくとも、天才って言われるほどではないな。
もし数学者になるんだとしたら、色んなものを捨てて基礎から数学をみっちりやらないといけないのだが、今からそれを後押ししてくれる風なんか吹いていないので無理じゃないかなと。
まあ結局、数学者でも何でも、何かになりたい人は神社仏閣教会で神様にお願いすれば良いと思う。
神様は、そういう切実な願いは意外と聞いてくれる。
なので、良い師に巡り合ったりとか、良い場所に連れて行かれたりとか、そういう能力開花のためのチャンスは与えられるから、そのあとは努力をすること。
でも、私は過去にどうしても任天堂のサウンドクリエイターになりたかったんだけど、今から思えばならなくて正解だったからね。
あんな大変な会社で一日中こき使われたら、サウンドクリエイター以外のスキルがなくなってしまい、かと言ってその仕事じゃ独立するわけにもいかないし、職の後先がなくなるので。
神様に願っても、叶ったり叶わなかったりするのは、そういう先のことも全部分かっているからだと思う。