任天堂について思ったこと。

任天堂は何年も何十年も愛され続けるゲームを作るべきだ。

本来は、それができるポテンシャルを秘めた会社なはずだ。

カプコンのようにならなくていいし、コナミセガのようにもならなくていい。

分かる人にだけ分かってもらえる、チーズのように濃厚な芸術作品を生むべきだと思う。

 

https://www.youtube.com/watch?v=Wuw41MuNJDw

これは、武原はん「雪」という作品で、私は師匠の家でこのYoutube動画を見た。

これを見て、ドイツ人は「何やってんだバカ臭い」と言い、イタリア人は「つまらねえ、くだらねえ」と言い、フランス人は「この人、何を表しているのだろう」とじっと見る。

では、なぜ私にはこれの良さが分かるかって?

私から見ると、まず言葉も美しいと思うし、音楽もその文章に合っており、また、踊りの「あまり主張しすぎず、要所々々だけ動かす点」に、ものすごくじわっとくる美しさを感じている。

それらを統合すると、「完璧」な作品だと思う。

そしてこれは、絵画の世界でも写実画の時代を経て、近代のアートにて「要点だけ残す」のと同じ要素を持っているように思う。

この近代的な思想を、西洋芸術の遥か前から気づいていた日本。

おそらく、日本という国が仏教国だからではないだろうか?

仏教の禁欲を続けることで目に見えてくるのはおそらく、日常の些細なことへの喜びであり、それを常時感じておくために仏教というものの存在意義があるのだと思う。

実はキリスト教の神父・牧師でも、信仰とともに真摯に生きている人は、この境地に達しているのだろう。

(逆に、その要点が分かれば禁欲なんかしなくてもいいだろう。師匠の友達のお坊さんは、仕事中は偉い人でも、東京に来ると男遊び(ゲイ)に全開だそうだ。)

ただ、キリスト教カトリックの芸術作品は、とにかく表現が大胆であり、かつ、聖書に忠実にちなんでいることが分かる。

これは、カトリックが宗教芸術に対して「分かりやすさ」を求めた経緯があるからだ。

一方、プロテスタントはとにかく聖書が絶対権威であり、逆にカトリックの芸術作品を破壊した歴史がある。

こうした歴史から見ると、カトリックプロテスタントかの違いで大きく揉めたりする西洋は、人と討論するための論理的思考能力が高くなる必然があったとさえ思う。

それに比べると、日本というのは宗教的な争いがあまり無いように思われる。

(ちなみに日本がキリスト教を禁止したのは、当時キリスト教とセット売りにしていた奴隷商売があったから、それを弾圧したのだと思う。)

日本では、仏教を掘り下げて、心の動き一つにさえも着目するようになった。

これは、自分の内面に対する論理的思考でもあり、人と討論するためのものではない。

西洋人のように、人に提示されて初めてそれについて論理思考をするのではなく、日本人は、すでに心の中にあるものを掘り下げていくのだ。

この歴史があるからこそ、日本人が機微なことに気づける感性を持ち合わせているのだと思う。

おそらく日本人には、この土台があるのだ。

 

任天堂にやってもらいたいのは、その辺りにあるように思われる。

これまで任天堂は、日本人にしか出来ないことをやってヒット作品を生んで来た。

「ここ気づくの?」という、細かい所に細工を入れるのが任天堂の良さだ。

しかもそれは、画質の良さや音楽の壮大さではなく、そのゲームにふさわしい「芸術的個性」で勝負している。

新幹線でサラリーマンが電卓で遊んでいるのを見て、そこから想起してゲーム&ウォッチを発明した横井軍平氏の「枯れた技術の水平思考」という言葉がある。

(新しいことをするにあたって、何もその技術が枯れている必要はないため、単に「水平思考」だけでいいと思う。)

マリオがどうして帽子を被っているか?

それは、ピクセルの容量が足りなかったからだ。

限られた容量の中で、どっちの方向を向いているか分かりやすくするために、彼は帽子を被っている。(そして、赤は目につきやすい。)

この発想力こそ、全盛期の頃の任天堂を表している。