結局、ブルトン「溶ける魚」よりも、パスカル・キニャールの書籍の方が好きだな。
前者には意味がなく、後者には意味が一筋通っているという、この違いは大きい。
(Facebook投稿記事)
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚(うお)」、二度目の読了。
無意識の重要性を説いたのが、シュルレアリスム宣言という作品。
それは最初、溶ける魚への序文であったが、シュルレアリスムという言葉を違う意味で使う芸術家たちへのポレミック(反論に反論すること)として、これを宣言とした。
1924年のことだった。
また、ブルトンは無意識に頼ってペンを動かし、溶ける魚を114篇に亘って書き殴り、うち32篇を上梓した。
今、我々が読めるのは、出版された32篇のみ。
無意識に頼って書かれているため、そこにそれ以上の意図はない。
意味の分からないというよりは、そこに意味なんかない。
夢や本能、幻想、言葉遊びが鍵となる。
そして、上述したように、溶ける魚は序文であるシュルレアリスム宣言とセットである。
完成した内容は、ちぐはぐな文章をパッチワークしたようなものとなっており、あれの感覚を絵にしたらダリやキリコのようになる。
「もし私が嘘をついているのなら、一滴の白リスの血をめぐんでほしい。」
「私の墓は、墓地が閉門されたあと、海をつきすすむ一隻の舟のかたちになる。」
https://www.amazon.co.jp/シュルレアリスム宣言・溶ける魚-岩波文庫-アンドレ-ブルトン/dp/4003259017