キニャール「秘められた生」、読了。

(Facebook投稿記事)



パスカルキニャール「秘められた生」、読了。


作者もそうだが、この本の翻訳者であり解説も書いた小川美登里さんというのは本当に頭の良い人なんだと改めて思った。

水声社の本は、とにかく作りが丁寧。

なお、この本はあとがきを含めると513ページもある上に、内容も難しいので一文一文を数回読まないと頭に入って来なかった。

先に解説から読むべきだったと思う。

翻訳者は「この解説を書くのに、色々な人の助けを借りて、粉骨砕身の苦労をした」と書かれているから。


以下、内容について。


「愛」の本質が「別離」に存するという命題のもと、秘められた生という、愛を巡る長い探究。

我々は母親の母胎から別離し、誕生する。

それと同じく、天国の門の外へと足を踏み出すアダムの姿は、原初の世界(かつての愛)から追放され、第二の世界(誕生)へと墜落する我々の姿に重ね合わせることが出来る。


蠱惑とは、手に入る所にあるのにあえてそれをせず、じっとそれを見つめてしまうこと。

欲望とは、手に入らないがゆえに、それを欲し、それについて考えてしまうこと。

蠱惑と欲望は、対立する。


作者曰く、本当に愛する人の裸体を目の前にすると、一瞬、性的欲望がなくなり、何か形而上の欲望が芽生えるというのだ。

このことから、愛と性欲は対立するという。

なぜなら、その時二人は、かつて母胎から切り離された瞬間の喪失感を思い出しているから。

また、愛する人に対しては、やがて言葉よりも沈黙を欲するようになるという。

言葉と沈黙は、対立する。

言葉は社会的なものである。

沈黙は愛が求めるものである。

ゆえに、愛は社会に対立する。


蠱惑(fascinatio(ラテン語))とは、「勃起した男性性器と、筋肉の攣縮に襲われている最中のこの男性性器の不意を襲う眼差しとの間に成立する関係」のことから発祥する。

つまり、蠱惑とは元々、男根に惹きつけられる気持ちのことを表わしていた。


一方で、欲望する(désirer)とは、「星宿(sidus(ラテン語))を見失い、それを求める」ことに発祥する言葉だ。

蠱惑は星を凝視しているのに対し、欲望は星が不在なのである。


音楽とは、芸術の中で最もアルカイック(古風)なものである。

音楽の根幹を成す聴覚は、視覚を未だ授けられていない胎児の状態へとタイムスリップさせる。

筆者はネミー・ザットラー(仮名、女性)に音楽を師事し、かつ恋愛関係でもあったが、そこで愛が他性への開かれであることを、音楽を通じて理解することになる。

(他性レヴィナスが提唱した言葉で、自己とは異なる他者の異質性や特性のこと。)

なぜなら、愛とは他人を自己に取り込もうとし、かつ他人の中へと自己を入り込ませようとするものだから。

誕生時の母胎からの別離の悲劇的感情を、音楽という母胎は思い出させる。

それは愛も同じで、愛の悲しみは母胎からの別離に由来するのかもしれないという。


ネミーはヴァイオリンのレッスン中にこう言った、

「デザートスプーンの背中を使って進まない」

これは、音を無作為にかき鳴らすことへの表現らしいが


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