青山の「もうやんカレー」、ランチタイムは1100円で食べ放題。
美味いし、身体に良いものを使っているし、腹が膨れるし。
ただちょっと、毎日通ったら塩分過多になるけど、たまにはいいかなと。
社会人がいっぱい来ていた。
カレーは、柔らかく煮込んだ肉が特徴のビーフカレーと、グリーンカレー、豆のカレー。
ご飯は、白米と、ニンニクと粗挽き胡椒の効いたライス。
あとは、醤油と粗挽き胡椒で炒めた焼きうどん。
オクラなどのサラダ。
美味いルイボスティーも飲み放題。
なんか、私のブログ記事って、言い方がキツい時があるかもなって思った。
自分の頭で考えている時は、「それが正しいかどうか」にしか概ね焦点が合わないんだが、その記事を友達(例えば女のお弟子さん)に見せる時に改めて読むと、「ああ、夜な夜な書いてやっちまったな」と反省することが多い。
昔、理系人間のトリセツみたいな本を読んだ際に、「PCを見ている時、口が悪い。しかし、機嫌が悪いわけではない」というのを読んだことがある。
確かに、PCというのは興奮作用を起こす電波が流れているという噂を訊いたことがあるので、そういう時は僅かにハイテンション状態になっているのかもしれないなと思った。
それは申し訳ない。
どうしよう、パスカル・キニャールのレアな本をとある書店で見つけてしまった。
今のままレヴィナスを読んでいたら、その間に売り切れてしまうかもしれない。
あとは、こうやってブログに書くと、転売屋の餌食になって、たった2000円かそこらを稼ぐためだけに買われてしまうかもしれない。
レヴィナスは、読んでいると体力を使う。
しかし、意味がすっと分かるとそこからすらすらっと読み進められる。
そして、電車を降りて暫く時間が経つと、また次の所から読む時に体力を使ったりする。
レヴィナスは、キニャールを理解するには切っても切り離せない哲学書のはず。
まあ、易占によると、りいか3が出て凶とのこと。
買うのはまだやめておこう。
今日は古瀬戸珈琲店にて、女のお弟子さんと技術ノートの交換をした。
交換というか、私が教えている。
彼女は、初めて訪れる神保町の本屋たちに感動していた。
イタリア書房も行った。(イタリア語、スペイン語、ポルトガル語の書の専門店。)
私がこの間購入し翻訳したスペイン語の絵本は、私が購入した瞬間から売り切れていた。
私の趣味を理解してくれる人が、私以外にもいるはずだから。
ファルグの詩も、誰も理解してくれる人がいない。
ファルグの詩は、駄作だけが歌曲になっていて、それだけは日本語訳されているから、それだけを読んだ人が勘違いして食わず嫌いをするのだろう。
ファルグはエッセイが素晴らしいのに。
私の職業がバレるといけないので仕事のことは書けないが、私のFacebook友達である○○さんも勘違いして食わず嫌いのパターンに陥っている。
ちなみに私は、あなたの悪口なんか一切言ったつもりはないよ。
もっと嫌な奴というか不特定多数に対して言っただけ。
普段、私にいいねをくれないあなたのことなんか、どうせ見てないだろうなと思って、そこまで考えてないから。
あとは、あなたには本当のことをこっそり教えてあげたいだけ。
私は昨日、あなたのTwitterを勝手に見たけど、圧を上げるには4段階に調合したあれを使うんだ。
というか、針刺しとそれはセットだから。
しかもそれの製造会社は現在倒産しているので、師匠が死んだらそれを科学検査院(なんだっけ?忘れた)に依頼して、成分分析をしてもらう必要がある。
なぜそんなことをするかというと、普通のやつを使うとダメになるから。
普通のやつで良いんだったら、もう既に使っているはず。
ここだけ読んだ同業者は、絶対に生兵法でやらないことをお勧めする。
クロミミラパンのお客さんでも、私がHOJOの紅茶良いですよと言ったら、いや私の紅茶の方が良いんだと言って、聴く耳持たない人がいた。
よくそんな事が言えるよなと。
謎だ。
良いものを教え合うっていう発想がないんだろうか。
七人の侍で「こいつらは粟と稗しか食わねえから」と言っていたのと同じくらい、もったいないわ。
クロミミさんも、「丸山さんが言うのは許せるけど、私が言うのは許せないみたいですよ」と言っていて、私と同じ苦労をしているみたいだった。
今日でブログ投稿666日目となった。
悪魔の数字と言われているが、実際には神秘の数字であることの方が多いだろう。
(Facebook投稿記事)
私はよくFacebookに勉強系の記事を投稿している。
しかし、それは別に読まれなくても利点はあるのだ。
なぜなら、読んだ本などを私の脳内でまとめるために書いているようなものだから。
確かに、勉強をしている人に比べたら、勉強をしない人はしている人に比べて、少なくともその一面では劣っていることになる。
でも、それがなんだ。
人の価値は本来平等であると思うが、それは神などの高位な霊的存在が決めることだ。
能力の個体差なんかで人の価値は決まらない。
そのことが分かっている人は、馬鹿ではない。
なぜなら、時にはマイノリティが権力を持つこともあることを知っているし、能力のない人が能力のある人を登用してのし上がることがあることも知っており、また、大前提としてはいわゆる勝ち組と言われることに重点を置かずとも心豊かに暮らしていくことが充分可能であることを知っており、よって、社会構造の複雑さは学歴などの順位を凌駕していることも直観しているからだ。
ただ、私よりも読解能力のある人が、私よりも読書を愛していないのは、端的に言うと”もったいない”。
読書は、頭が良くなるというよりは、感性が豊かになると言った方が近いかもしれない。
ハイデガーは、芸術の本質は音楽でも絵画でもなく、詩だと言っていた。
ここで「読書を愛する」と書いたのは、読解能力の優劣に関わらず、読むことそのものが好きかどうかということだ。
だからこそ、いつか私のマニアックな勉強系記事が誰かに読まれることを期待して、宝の地図を入れた瓶を海に流すように、今日もこうやって書き続けるだけである。
ちなみに私は、読解能力はあまりないので、よく同じ箇所を何度も読んで噛み砕いたりしている。
トリスタン・ミュライユ、良いじゃないか。
最近、今まで好きではなかったものが急激に好きになっていく。
ミュライユの「忘却の領域」も、28分もあるのに夜な夜な聴いてしまった。
まだ途中までしか聴いていないが、おすすめは「河口Ⅱ: 水の混合」。
https://open.spotify.com/track/0bXL8IOHME5GiECDsCjM2V?si=fcRDLtGUSYeg2Qo9LF2rdQ
武満徹が情に訴える現代音楽を作るとしたら、ミュライユはもっと高度な快楽に訴えてくる感じ。
その辺は、スペクトル楽派なので。
このピアノ曲集は一度全部聴いたのだが、あの時はまだ魂が呼応していなかったのだと思う。
今聴くと良さがすごく分かる。
何事もタイミングってあるんだな。
ミュライユの音楽は、ちゃんと進化されたものだよ。
心を落ち着かせ、落ち着いていることによる快楽を得させてくれるのは、聴きやすいポップスではなく、かしこまって聴く現代クラシック音楽だった。
(もちろん、ポップスはポップスで良さがあるのだが。)