私の教養は決して高くないけれども。
私が死ぬまでには、英語・フランス語が辞書を使わなくても読めるようになり、日本史と世界史の分厚い本を読破し、電験3種を取得して風力発電や水力発電についての知識を深め、気象予報士を取得して天気の構造をひと通り知りたい。
自分の教養が増えていくにつれ、知りたいことがまだ山ほどあることに気付く。
もしかしたら、この人生だけでは到底無理な目標かもしれない。
この年齢になってしまったら記憶力が追い付かないので、今世中には無理かな。
でも、本屋に行く度に、「あれも読みたい、これも読みたい、しかし私のキャパだと一冊ずつしか読めないから順番待ちだな」などと思う。
だから、教養が高くなったのに傲慢になるということは、絶対にない。
傲慢になっている奴は、勉強を愛してなどいない。
むしろ、教養が高くなればなるほど、自分の教養のなさに目がいってしまい、自分の足りないものを所望してしまう。
こういう場合における「足るを知らない」は、魂的にはOKであり、人間らしい喜びの一つだと思う。
(Facebook投稿記事)
私の教養は、高くはないですよ。
最近、「すごい教養の持ち主ですね」などと言われることが増えてきたのですが、もし私が教養の高い人間だったら、英語が喋れたり、歴史が詳しかったり、電験3種を持っていたりしますからね。
例えば、電験は最初の方で挫折してしまい、勉強した内容はほとんど忘れました。
キルヒホッフの定理なんかはそれ自体簡単なのでしょうが、忘れましたね。
ただ、私は、自分が好きなことだけは詳しいつもりです。
他者に言われたことを勉強するのは、基本、自然的でないと思ってしまいます。
それがうちの大学卒のクオリティ。
そして、私のアセンダント(ASC)は牡牛座14度です。
つまり、何かをじっくり積み上げていくタイプというのが本当の性格なので、いきなり大量に勉強するとかは無理なんです。
つまり、ぶっちゃけ、美しいと感じたものにしか興味がないのです。
(前に牡牛座14度の「模索する貝と遊んでいる子供たち」と言いましたが、間違いでした。あれはたぶん前世の性格。)