フルクサスとネオダダがあまり好きではない理由。

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フルクサスとネオダダがあまり好きではない理由。
それは、本来のダダイスムシュルレアリスムが、芸術の基礎的な素養が頭に入っている人が、「既存芸術を超えた」意識で創作したであろう作品なのに対して、フルクサスやネオダダは、新しいものばっかり追いかけて、音楽理論や色彩理論などの古典的な芸術性を作品から全く感じないから、心に残らない
フォーマリズムの絵画が心に響くのはなぜかというと、そういう「絵画における進化の過程」を垣間見る素養の下地があるからではないだろうか。
よって、そうでない人の作品は、芸術的に「浅い」と感じる。
ナム・ジュン・パイクみたいに学歴だけ東大卒でも、浅いものは浅い。
フルクサスで、ピアノをどんどん壊していく音楽?があったが、音だけ聴くとまあまあ新鮮な響きを感じるのに、のこぎりの使い方が素人だったりと、芸術的に、総合的に、浅い。(いずれにせよ、誰かがやるだろうとは思ったが。)
ただ、阿部薫のフリージャズのアルバム「暗い日曜日」は、例外的に心に響き、一種の中毒性があるのを認める。
フリージャズは音楽的素養を感じるものが多いから、私はハマった。
恐らく阿部はそれなりに音楽を聴き込んでいたり、セリーヌなどの文学にハマっていたりしたから、そういう音が出せたのだろうと思う。
何度も言うが、高校中退の阿部の音楽の良さに、学歴は関係ない。
めちゃくちゃ好き、というわけではないが、阿部の音楽はそこそこ好きだ。