モーゼス「霊訓」によると、罪というものはどこまで行っても消えることがなく、悲哀と恥辱とによって償わなければならないのだそうだ。
また、モーゼス「霊訓」は神の存在を肯定しており、神はどんな者に対しても愛と親切心に満ちているという。
神は、罪というものがそれ自体に不幸が含まれることを熟知しているため、復讐のような天罰は与えないが、死後になっても転生してもその罪は依然として残るため、その者に対しては因果によって、悲哀と恥辱の経験を与えるのだそうだ。
その理由は、「刑罰の赦免は、犯せる罪の一切の結果が除き去られた暁に於てのみ、初めて可能だからである」とのこと。
これと同様に、善行の結果も永遠不滅だという。
「清き魂のおもむく所には、常に良き環境が待ち構えており、十重二十重にその一挙一動を助けてくれる」という。
人間の住む世界はいわば初等教育であり、高等教育への準備をするために生まれてくるという。
とにかく地上の生命は、大なる生命の一断片だそうだ。
そして、霊界からは常に高次霊たちが通信を送っているらしいが、それを受け取るだけの器がなければならない。
「心に従う」というのは、「神に従う」ことである。
神の啓示は常に進歩的であり、そして、人間は例外なく進歩に向かっている、とのこと。
「神はシナイ山頂で啓示したと同じく、現在も啓示する」とのことだ。
また、啓示の内容がある時代と別の時代で違っている時もあるが、それは両者とも正しい場合もあり、どちらか一方を異端視すべきではなく、道理に従うべき。
ただし、「いかなる啓示も絶対的純一物ではない」とのこと。
(引用)
(一) 神の認識と崇敬。・・・神に対する責務。
(二) 同胞への貢献。・・・隣人に対する責務。
(三) イ、自己の肉体を守る。
ロ、自己の知識を開発す。
ハ、真理を求める。
ニ、善行を励む。
ホ、幽明※交通を講ず。
・・・自己に対する責務。
※幽明:あの世とこの世。
「若しもわれ等の述ぶる所が時期尚早で、採用を憚(はばか)るというなら、しばらく之を打ちすてて 時期の到るを待つがよい。必ずやわれ等の教訓が、人類の間に全面的承認を受くる時代が早晩到来する。われ等は決してあせらない。われ等は常に人類の福祉を祈りつつ、心から真理に対する人類の把握力の増大を祈願して居るものである。」
(引用、終わり)
訳者は特に第八章が重要だと述べている。そこからの引用文を載せておいた。