全体性と無限 第一部B-6章

(スマホのメモ)


全体性と無限 第一部B-6


無神論者として絶対者と関わることは、聖なるものの暴力から純化された絶対者を迎え入れることである。

無限は話す。

無限はヌミノーゼではない。

(ヌミノーゼ理性的・概念的には理解不可能な宗教的感情)

無限に接する自我は、無限と接触することで消えてなくなるわけでも、自己の外に運び去られるわけでもなく、分離されたままでいるのであり、我関せずの態度を保ち続ける。

無神論者である存在だけが他者と関わることができ、しかも既にこの関係に縛られず孤絶することができる。

超越は、融即による超越者との結合とは区別される。

(融即別個のものを区別せず同一化して結合してしまう心性の原理)

実定諸宗教の信者たちは、融即の束縛から十分に解き放たれてはおらず、知らないうちに神話に潜りこんでいる自分を受け入れているのである。

無限の観念、形而上学的関係は、神話なき人類の黎明である。

ただし、神話から純化された信仰、一神教的な信仰は、それ自体が形而上学的な無神論を前提としている。

啓示とは、言説である。

啓示を迎え入れるには、この対話者の役割に適した存在、分離した存在が必要。

無神論こそが、自体的な真の神との本来の関係の条件なのだ。

とはいえ、この関係は、融即から区別されるのと同時に、対象化からも区別される。

神の発話を聞くことは、ある対象を認識することに帰着するのではなく、私のうちにあるその観念から溢れ出るような、デカルトがその「表象的実在性」と呼ぶものから溢れ出るような、ある実体と関わることに帰着する。

(神の発話を聞くことは、私の観念の一部である実体と関わることになる。)

認識され、主題化されるだけで、この実体はもう自分自身に即すことをやめる。

言説において、この実体は異質(異邦的)でありながら現前するが、こうした言説が融即を宙吊りにする。

そして、言説は対象の認識を超えて、社会的な関わりをめぐる純粋経験を創始する。

社会的な関わりにあっては、存在が自分の実存を他なるものとの接触から引き出すことはない。


超越者を異邦的なものや貧しきものとして位置付けることは、すなわち、神との形而上学的関係が人間や事物に対する無知の中で成し遂げられるのを禁じることである。

(超越者は、異邦的でも貧しきものでもない。神との形而上学的関係が、無知の中で成し遂げられてはいけない。)

神的なものの次元は、人間の顔を起点として開かれる。

超越者との関係は、社会的な関係である。

(関係といっても、いかなる支配からも自由なものだが。)

超越者、無限に他なるものは、この(社会的な)関係においてこそ、私たちに懇請し、訴えかけるのである。

存在の内にあって、他人の近さ、隣人の近さは、自らを表出する絶対的な現前(あらゆる関係からも解放された現前)の啓示が生じる際の不可避の契機である。

(私の中では、神は私に近いことが、啓示が生じるためのチャンスである。啓示とは、あらゆる関係からも解放された現れ方で現れる。)

このような現前の公現は、まさに異邦人や寡婦や孤児の顔のうちで、自らの悲惨を介して私たちに懇請することに存する。

(異邦人・寡婦・孤児などが、自らの悲惨を介して私たちに懇請する時、啓示と同じような現れ方を公に見せる。)


形而上学者の無神論、これが肯定的に意味しているのは、形而上学的なものとの私たちの関わりは倫理的な振る舞いであって、神学ではないということ。

そして、たとえそれが類比による神の諸属性の認識であっても、何らかの主題化ではないということである。

神が最高度の究極の現前へと高まっていくのは、人間たちに与えられた正義に相関するものとしてである。

神に向けられた眼差しが神を直接に知解できないのは、無限との関係が他者の全面的超越に魅惑されることなくこれを尊重するからであり、人間のうちにこの超越を迎え入れるという私たちの可能性が、対象を主題化し、包含する了解より遠くに赴くからである。

より遠くに、というのは、まさにこの可能性が無限の方に赴くからだ。

(神を知解できないのは、無限との関係がそのことを尊重するから。それは、私たちの知解が限定的だからではない。人間のうちにこの超越を出来るようにすることが、逆に対象を主題化してしまい、出来るという了解をオーバーしてしまうからだ。しかし、無限の方に赴いてはいる。)

直接の知解と称されている、神の神聖なる生への融即としての神の知解は不可能である。

なぜなら、融即とは神的なものに加えられる否認であり、対面以上に直接的なものはないからである。

対面は廉直さそのものなのだ。

不可視の神とは、単に想像を絶する神を意味するのではなく、正義において接近可能な神を意味する。

(正義=対面の廉直さ)


倫理とは、精神的な光学である。

主体・客体関係は倫理を反映してはいない。

(自分がどう見るか・他人からどう見られるかは、倫理に関係ない。)

主体・客体関係に通じる非人称的な関係にあっては、そして人間の現前を一切排した所では、不可視とはいえ人称的である神に接することはない。


見神=正義の働き=対面の廉直さ

(見神神と人間が一体となれば、霊感によって神を見ることが出来るという説)

それゆえ、形而上学は、社会的な関係が演じられる所で(私たち人間同士の関わりのうちで)演じられる。

人間同士の関係から分離されるなら、神のいかなる認識もあり得ない。

他人こそが、形而上学的真理の場所であり、神との私の関わりに不可欠のものである。

他人は媒介者の役割を演じるわけでは全くない。

顔において他人は脱受肉化している。

(受肉神の言葉が人間の形となって顕現したこと)

顔を介することで、他人は神が自らを啓示する高さの現出となる。

私たち人間同士の関係こそが、殆ど垣間見られたことのない研究領野を記述するのであり(この領野で、人はたいてい内実が心理学でしかないような、いくつかの形式的範疇で満足している)、神学的な諸概念にそれらが含み持つ唯一の意義を与えるのである。

(人間同士の関係こそが、神の概念に唯一の意義を与える。)


倫理の、人間と人間の関係全てが拠り所とする還元不可能な構造の優位を打ち立てることは、本書の目的の一つ。


形而上学は、倫理的な関わりのうちで演じられる。

道徳的な諸概念を起点としてこそ、形而上学のあらゆる主張は精神的な意味を持つ。

そして、事物の虜となり、融即の犠牲者となった想像力が私たちの諸概念に付与する一切から純化される。

(道徳的概念を起点としてこそ、想像力が事物や融即から純化される。)

倫理的関係は、聖なるものとあらゆる関係に抗する仕方で、関係を取り結ぶ者の知らないうちに当の関係が持ちかねないあらゆる意義を排除することによって定義される。

(倫理的な関係は、関係を結ぶ者が気づかないうちに持つあらゆる意義を排除することで、定義される。)

ある倫理的関係を取り結ぶ時、私は、自分が作者ではない劇、あるいは私よりも先に他者が結末を知っている劇の中で演じることになるような役割を認めるのを拒む。

さらには、救済の劇であれ、劫罰の劇であれ、私の意に反して演じられたり、私を弄んだりするような劇であれば、それに出演するのを拒む。

これは、悪辣な傲慢と同じではない。

これはいささかも服従を排除しないからだ。

ただし、服従は、まさに誰かが思い描いたり予示したりする謎めいた意図への非意志的な融即とは区別される。

人間相互の関係に帰着し得ないものは全て、宗教の優れた形態ではなく、その永遠に原始的な形態を表している。

(人間関係でないものは全て、原始的な形態である。)