全体性と無限 第一部 B-3章

(スマホのメモ)


全体性と無限 第一部 B-3


分離の独自性は、分離した存在の自律性にある。

真理という関わりは、言語に依拠し、諸項が関係に縛られず孤絶する関係。


対象の認識は、諸項が関係に縛られず孤絶する関わりを保証しない。

客観的認識は、いくら無私無欲だとしても、認識する存在がどのように現実的なものと接したのかを、いつまでも刻印として帯びている。


歴史的なものは、自分自身の現前には永遠に不在である。

歴史的なものは、過去によって定義されるのではなく、その過去も話題にされ得る主題として定義される。

歴史的なものは、自らの現出の背後で消え去る。

歴史的なものの現れは常に表面的かつ両義的な(二つのものの間で曖昧な態度を取る)もので、現実性なき実在性である。

世界は時間の流れのうちで構成されるのだが、この流れには起源がない。(カント)

自らの原理(根源)を失った無始原的なこの世界(現象の世界)は、真なるものの探究に応えるものではなく、享受を充実させるものである。

享受とは充実状態。

こうした享受の世界が、形而上学的野心を充実させることはない。


主題化されたものの認識は、事実の欺瞞化に対して繰り返し為される闘争。

主題化されたものの認識は、事実の偶像崇拝、話すことのないものを呼び出すことである。

と同時に、様々な意義と欺瞞からなる、克服できない多元性である。

この認識は、認識するものを終わりのない精神分析へ、自己自身のうちに真の起源を探す絶望的な研究へ、目覚めようとする努力へと誘う。


存在の自体的なものの現出は、それが暴露されることではない。

自体的な現出は、私たちがそれに対して取り得る如何なる立場にも左右されずに、存在が私たちに自らを語ること、この存在が自らを表出することである。

存在は、対象の可視性に反せず、現出(当の存在をただ予告するだけ)のうちで自分自身を現前させる。

この存在は、かかる現出それ自体を指揮するものとして現前している。

この存在は、それをただ現出させるだけの現出に先立って現前しているのだ。


絶対的経験とは、暴露ではなく啓示である。

表出されたものと表出するものとの一致。

一致するというその点において、特権的なものである他人の現出、形態を超えた顔の現出である。


顔とは表出であり、言説である。

顔は話す。

形態において、存在者は主題として晒されることで隠蔽されてしまう。(現出をたえず裏切ってしまう形態。)

しかし、表出の生はかかる形態を解体することである。

現出する者は、自分が差し出す形態を、たえず解体するのである。

同に合致した形態を解体して、他者として現前する仕方が、意味すること・意味を有することである。

話すこと=意味しながら現前すること

意義(意味作用)・表出は、意味することが与えることではない故に、いかなる直観的所与からも分けられる。

意義は、外部性の現前。

言説は、直観・思考の変容ではなく、外部的存在との本源的な関係。

言説とは、意味の生起である。

意味は、現前によって語られ、教えられる。

現前に意味を与えることは、可視的な現出より直接的な現前であると同時に、遠く離れた現前(他なるものの現前)である。

他なるものの現前は、自分が差し出す主題を自由に扱えるような(嘘をつきうる)存在者の率直な現前。


そこで、この存在者は、対話者としての率直さを表わしながら、常に顔を顕にして闘う。

顔面を通して、眼の言語が貫いてくる。

眼は話す。

真理と虚偽、真摯さと隠蔽の二者択一は、絶対的な率直さの関係に身を置く者の特権。


活動が私たちを動作者へと導く時、当の動作者は不在である。

活動は表出しない。

所産を起点にして誰かと接することは、この人の内奥性に押し入るようなもの。

他者は内密性(私生活)の中で自分を晒しはするが、歴史の登場人物と同様、他人の前で自分を表出しない。

それを為した人を意味するのが所産だが、それは間接的に、三人称でするのである。


言語の本質とは、顔において啓示者と啓示されたものが一致すること。


他人が自体的なものであり続けながらも関係のうちに入るという純粋経験の項となるのは、対話者のみである。

この純粋経験において他人が自らを表出する。

認識が求める客観性は、対象の客観性を超えた所で成し遂げられる。

対話者は、どんな主観的運動にも左右されない。

対話者の様態は、自己を起点とすること、異邦人であること、にも関わらず私に対して現前することである。

(物自体との関わり。)


・私に固有で本質的なものの領野(原初的領分)のうちでの、他人の身体の構成

・他人の身体のこのように構成された対象

・私に固有の領野に現れたある物体が、私固有の身体に類似したものとして対をなすこと(→対象自体が一つの「私はできる」として内部から経験される私の身体との超越論的対化)

・他人のこの身体を他我として了解すること

以上のことは、構成の記述と見なされる諸段階のそれぞれにおいて、対象の構成が他人との関係に変容することを隠蔽してしまう。

他人との関係は、この関係をそこから引き出そうと試みられている当の構成と同じくらい本源的。

私に固有で本質的なものの領野(原初的領分)は、私たちが同と呼ぶものに相当。

これが絶対的に他なるものに向かうのは、他人の呼び声によってである。


ハイデガー

共同存在は、客観的認識には還元不可能な、他人との関係として位置づけられている。

しかし、共同存在も、存在一般との関係・了解・存在論に依拠している。

この下地は、全ての存在者が浮かび上がる地平。

地平と、地平が含む限界の概念、視覚に固有のものである限界の概念が、関係を織りなす究極的な骨組みであるかのようだ。

さらに、相互主観性とは共同存在であり、私(自我)と他者に先立つ私たちであって、中性的な相互主観性である。

つまり、対面こそが社会を告知し、分離された自我の維持を可能にする。


デュルケーム

私が他人と関わりを持つのは、社会を通してのみである。

社会は単に個人や対象からなる多様性ではないし、私が関わりを持つ他人は、全体の単なる一部でも、ある概念の単独性でもない。

社会的なものを通して他人に到達することは、宗教的なものを通して他人に到達することだ。

しかし、宗教的なものはすぐさま集団表象に帰着してしまう。

表象の構造(表象を下支えする、対象化する志向性の構造)が、宗教的なもの自体の究極的解釈をすることになる。


ブーバー

実践によって導かれるという対象との関係、汝としての他者、パートナー・友としての他者、これらに到達する対話的関係を区別した。


他を知り、他に到達するには、他人との関係のうちで成し遂げられる。

他人との関係は、言語の関係のうち。

言語の本質とは、呼びかけ、呼格。

他者に呼びかけるやいなや、他者はその異質性をそのままに維持され、確認される。

呼び出されたものとは、私が話しかける相手である。

呼び出されたものは、自己にしか準拠せず、何性をもっていない。

(何性=ある対象を律する際に当てがうロゴス)

呼びかけられたものは、発話へと呼び求められている。

その発話の本質は、自分の発話を救援すること(現前すること)である。

この現在は、持続のうちで固定された諸瞬間からなるのではなく、これらの瞬間を救援し、その責任を担う一つの現前によって、流れゆくこれらの瞬間が止むことなく取り戻されることから成っている。

この止むことなさが現在を生み出す。

それが現在の現在化(現在の生)である。

(時間は、目の前に何かが現れ続けることによって出来ているので、この現れ続くものが現在を作っており、その現れ続くものの継続性こそが現在の生だ。)

表出とは、こうした現働的なものの現働化。

(現働的=潜在的の対義語)

現在は、過去とのこの闘争・現働化のうちで生起する。


発話がもつ唯一的な現働性が、発話が現れる状況、発話が延長していくように思われる状況から、当の発話を引き離す。

発話の現働性は、書かれた発話からは既に奪われてしまったもの、すなわち統御(師であること)を齎す。

発話は、単なる記号である以上に、本質的に師に属するもの。

発話が何よりもまず教えるのは、教えそのものである。

発話はこの教えの助けを借りることでのみ、事物や観念を(私のうちに呼び覚ますのではなく)教えることができる。

観念が私に教示するのは、それらを現前させる(提示する)ものである師、それらを問題にする師を起点としてである。

客観的認識が達する対象化と主題は、既に教えに依拠している。

対話の中で事物を問いただすことは、それらの対象化と一致する。

師=教えと教える者との一致

教える師が現出する現在は、事実の無始原(無秩序)を乗り越えている。


所産の客観的外部性は、既に言語(超越)が創設する世界に位置づけられている。