散種 序文 p.1~p.24

ジャック・デリダ「散種」(叢書ウニベルシタス)の「序文」を読むに至っての、スマホのメモ。


(以下、スマホのメモ)


散種 序文 p.1~p.24


差延とは、意識の自己同一性に対して差異が先立っていること、この差異が自己への現前を遅らせていること。

それにより、現前性や現在の特権化を禁じている。

フロイトのいう無意識の事後性は、幼時の体験の意味が抑圧され、成人になって遅れて意識されることをいう。


p.10

散種のなかに書き込まれている諸々のテーゼのうちの一つとは、(そのものとしてのテクストを)意味、内容、テーゼ、主題といった効果に還元することは不可能であるという、まさにこのこと。

たぶんそれは不可能性ではない。

なぜならそこに還元することは普通になされているのだから。

むしろそれは、そうした還元に馴染まず、なすがままにならないエクリチュールの抵抗である。

その抵抗のことを、「残抗」と呼ぼう。


なのでこれは序文ではない。

(序文とは、傑出したシニフィエ(所記)のまとまった一覧表、法典(コード)、要約、さらには主要単語や固有名のインデックスのこと。)


序文は、パロール(約束)の前渡し。

プロトコルは、こうした言説上の先取りを、テクストの記念碑に置き換える。


プロトコル

1.(外交上の)儀礼典礼

2. (条約の)原案。議定書


プロトコルは、ある全く別の構造を持つ書記法(グラフィック)によって、序文ではなくなる。


提示的≒現前的


序文や前文、序論、前言、前置き、序言、プロローグ、プロレゴメナ(前言、序言、序文など)は、常にそれら自身の消去を目指して書かれてきたように思われる。

しかしそれらは、消去の標記という残余を残す。

p.13

哲学書の序文は、限定された知がそれ自身の過程において自発的に生み出すことの出来ない対象、したがって外部から導入せざるを得ない対象、前もって与えられたものとして定義せざるを得ない対象の形式に還元してしまう。

この残余(裁断屑)を、哲学的本質性の廃棄物としてではなく、別の仕方で読むことは出来るのか?出来るのだ。


序文の各頁は自分自身から剥離し、直ちに自己分裂する。=異種交配・二面性=概念の内部と外部

内部が、自分自身の外部を、弁証法と再自己固有化に従って、自らの否定性の一契機として止揚(高次の段階に高めて統一する)する。

序文の契機は、哲学の学的・論理的展開と、その経験主義的・形式主義的遅延との間の、決定的・危機的な隔たりによって、必然的に開かれる。

序文の必要性は、教養・形成に属する。

支配的な文化が経験主義と形式主義を課してくるからこそ、前文が必要。

したがって、支配的な文化と戦うか、支配的な文化の教養を高めて更によく形作る必要がある。

これは、概念の自己提示・自己現前化ではない。

否定的な外部性が真理の過程に属し、その過程に痕跡を残さねばならないゆえ、この戦いは哲学に内的なものでもある。


ヘーゲル概念の自己提示(自己現前化)の内的必然性を定義した後で、この内的必然性を外的必然性と同一視する。

外的必然性=概念の実存・現存在としての時間を考慮に入れる必然性

感性の普遍的形式としての、時間の必然性が問題になる。

その次に、概念の現前性のための一般的行き境位であるこの形式的時間と、それの経験的・歴史的な限定(例えば、我々の時代・現代といった限定)との間の隔たりが認識されねばならない。


それを、既にそこにあるものへと導き入れてやること、更には、そこに在ること(現存在)を概念へと導き戻し、(あるいはそれと循環的に、)概念をその現存在の中へ導き入れる必要がある。

概念と現存在との、概念と実存との、思考と時間(思想と時代)との、ある種の空隙(エスパスマン)

そのようなものが序文の住処だということになる。

時間とは序文の時間であり、空間とは序文の空間なので、序文は書物の「場」と「持続」とを全体として占めることになる。(そして、時間は空間の真理。)


ヘーゲル:

概念の内在運動とは、その単一性において自己の限定性を、その限定性において自己への等しさを自らに与える、自分自身を構築する運動。

意識とは、具体的な知である限りでの精神、だが外在性に取り囲まれた精神のこと。

「現出する精神である限りでの意識」という自らの道の途上で、自らの無媒介性と外在的凝固から自己を解放する意識は、即自かつ対自としてあるがままの純粋本質性を、自らに与える純粋知となる。


現象学の序文は、論理学の終わりから書かれている。

概念の自己提示(自己現前化)が、全ての序文の真の序文である。

諸々の書かれた序文は、概念の外部にある現象。

概念=絶対的ロゴスが自己のもとに存在すること

概念こそが、全てのエクリチュールの真の序文、本質的述語(先言(プレディカ))なのだ。


序文とは、(数学のように)生ける概念の外へ落下した記号の集合なのか、自らが告知せんとする内容と内的な繋がりを持たない、機械的で虚ろな反復なのか、どちらかしかない。