順番がずれましたが、レヴィナス「全体性と無限」序文です。
スマホが壊れて消えたら困るので、ここに載せておきます。
無限とは、デカルトのいう神の思考のこと。
デカルトは、神は無限であるがゆえに人間とは絶対的に切り離された存在だと言いました。
しかし、レヴィナスはこの序文で既に、
「神は誰にでも宿っており、人間の全体性に決して飲まれることなく、あなたの魂が生まれた時からデフォルトであなたとともにあります」
と言っており、神と人間は切り離されていないと言っています。
(無限とは本源的な超越。無限の観念とは、自分自身で発見するものと臆見から受けとるものとの区別に委ねられる以前の精神。)
また、
「しかも、神はあなた自身ではありません。あなたとともにいるが、別の存在です。神の思考はあなたの思考から溢れ出ています」
とも言っています。
「神の思考は、歴史の裁きから主体性を解放する」
とも言っています。
人間に備わっている神性は、時系列と支配者にまとめられた全体性の観念(それを歴史と云う)から、その人の主体性を解放する、という意味です。
(ちなみに、歴史マニアの人がレヴィナス思想に生きると、歴史上人物一人に焦点を当て、鎮魂のために彼の生きた証としての小説を書いてあげよう、となったりします。それをやったのがレヴィナスの弟子パスカル・キニャールです。)
…などと、上記に書いてみましたが、その信仰心が前提に来なければこの本を隅々まで読み解くことが出来ないから私はそう言ったのであって、別に無神論的な解釈も大雑把になら出来なくはないでしょう。
ただ、この本を無神論的に解釈すると、所々が意味不明になりますが。
なお、序文にて名言の一つである、「戦争は道徳を宙吊りにする」は、メモには書きませんでした。
(スマホのメモ)
全体性と無限 序文
終末論は、全体性を超えた存在と関係づけるのであって、過去と現在を超えた存在と関係づけるのではない。
無限の概念は、全体性には包含されないが、全体性と同じく本源的な超越である。
無限の観念においては、つねに思考の外部にあり続けるものが思考される。
無限の観念は、あらゆる臆見と客観的真理の条件。
無限の観念とは、自分自身で発見するものと臆見から受けとるものとの区別に委ねられる以前の精神。
無限は思考から溢れ出るもので、無限との関係は、客観的経験とは別の言葉で語らなければならない。
無限の観念は、活動性、観想的思考、知、批判の、共通の源泉(基礎)である。
倫理(エテイク)とは一つの光学(オプテイク)(物の見方)なのだ。
戦争の客観主義↔︎終末論的視覚に由来する主体性
無限の観念は、歴史の裁きから主体性を解放する。
戦争の苛酷な法が砕け散るのは、無限に(客観性よりも客観的な無限に)衝突することによってであり、存在から切断された無力な主観主義に衝突することによってではないのである。