全体性と無限 第一部 B-1章

(スマホのメモ)


全体性と無限 第一部 B-1


無限の観念は、他に対する同の分離を前提としている。

しかし、この分離が他との対立に依拠することはあり得ない。

外側から自分を見ること、そして自己や他者たちという言葉を同じ方向性で用いるのは根本的に不可能であり、それゆえ全体化も不可能。

そして、社会的経験の次元では、それに意味を付与するような相互主観的経験を忘却するのは不可能。


同の分離は、内奥的生、心性の形で生起する。

心性は、単に存在を反映するだけではなく、一つの存在様態として全体性に抵抗する、根本的分離という事態である。


時間を介することによって、存在はいまだ存在しないものである。

存在の原因は、あたかもその結果より事後的であるかのように、結果を介して思考されたり認識されたりする。

時間の秩序と隔たりの存在が、形而上学者と形而上学的なものとの、存在論的分離を組み立てる関節をなす。


観想的思考も、分離を組み立てる関節をなしている。(分離は、思考の中に反映されるのではなく、思考によって生み出される。結果が原因を条件付けている。)

ある場所にある存在も、心性を介することで、この場所から自由であり続ける。

私が考えている(コギト)間は、ほんの一瞬ではあるが、たった独りで自分を下支えしている。

意識のうちに無意識的なものや暗黙のものが含まれていても関係ないし、知られざる決定論にすでに繋がれていると言ってこの存在の自由を告発しても関係ない。

この無知は、自己の無知とは比較にならない超脱(デタシュマン)である。

収監された存在は、自分の監獄について何も知らないまま、わが家にいる。

こうした錯覚の力が、この存在の分離をなす。


思考の、我関せずの態度・暇(いとま)・先延ばしが、内奥性。

内奥性そのものは、虚無・単なる思考でしかない。

内奥性とは、歴史から自分の意義を全く汲み取ることのない誕生と死の可能性そのもの。

(無から生じるはずの分離した存在の誕生、絶対的な始まりは、歴史的には不条理な出来事。)

(歴史的連続性のうちにあり、新しい起源の最初を絶えず刻み込もうとする意志から生まれる活動もまた同様である。)


全体化が成し遂げられるのは、歴史(史記述家たちの歴史)のみであって、生き残りたちのもとにおいてである。

歴史の時系列秩序は自然と類比的な即自的存在の骨組みを描き出すという主張・確信が、全体化が依拠するもの。

史記述家の時間において、内奥性とは、(虚無・単なる思考の中では)全てが可能な非存在である。(そこでは何も不可能はないと言う=狂気。)=ある存在の可能性ではないと言う。

生き残りにとっては、終わりとされる死が単にこの終わりにならないことが必要。


内奥性と歴史、これらの矛盾は心性によって乗り越えられる。


p.86

誕生に(自然に)含まれる既に成し遂げられたものを、記憶は取り戻し、反転させ、宙吊りにする。

繁殖性は、死という点としての瞬間を逃れる。

記憶を介して、私は事後的に過去に遡行して自分を根拠づける。

起源の絶対的過去の時点では、受け入れる主体を有しておらず、それゆえ宿命としてのしかかってきたものを、こんにち私は引き受ける。

記憶を介して私は引き受け、改めて問いただす。

記憶は不可能性を実現する。

記憶は事後的に過去の受動性を引き受け、過去を統御するのだ。

歴史的時間の逆転としての記憶は、内奥性の本質である。


死の不安は、足りない時間とまだ残っている時間の曖昧さのうちにある。


魂の永続性の観念が表現していたのは、共通の時間から自由になった人格的な時間。

歴史的時間から分離した内奥性だけが、全体化に抵抗する。

ただ、無限の観念が自分でこれを生み出すのではない。

心的生は、誕生と死を可能にする、可能事と不可能事を超えた存在内の一次元、非存在(非本質)という一次元。

心的生は、歴史の中に陳列されることはない。(内奥的生の非連続性は、歴史的時間を中断する。)


人間の全体性という観念を思い描くのは不可能。

なぜなら、人間は皆、内奥的生を持っているから。

自我の分離を起点とした社会的現実への接近は、普遍的歴史(全体性)の中に飲み込まれはしない。

分離した自我を起点とした他者の経験は、様々な全体性の理解にあたっての、意味の源泉であり続ける。


ひそやかさ(離散性)・死の間隔は、存在と無の間の第三の概念。

間隔の独自性は、二つの時間の間にあること。=死時(temps mort タイムアウト)

死時が刻印する歴史的持続との断絶とは、まさに創造が存在内で行っている断絶のこと。


無神論とは、神的なものの肯定にも否定にも先立つのと同じく、融即との断絶。

(心的なもの)の次元は、分離の成就であり、無神論者なのだ。

自己原因であることなく、自らの原因との関わりにおいて第一であるように条件付けられた存在を、私たちは意志と呼ぶ。(心性が、このような存在の可能性である。)


心性は感性であり、享受の原基であり、エゴイズムである。

個体化の原理を齎すのは心性であって、質料ではない。

感性は、自我のエゴイズムそのものを構成する。

これは、感覚するものであって、感覚されたものではない。

感覚は、一切の体系を解体する。

複数の感覚するものからなる多様性は、生成が可能となる様式そのものということになるだろう。

思考は、この生成のうちに、運動してはいるものの、統一性を生み出す普遍法則のもとに整序される存在だけを再発見するわけではないだろう。

そのような場合にのみ、生成は存在の観念と根本的に対立する観念としての価値を獲得するのであり、あらゆる統合への抵抗を名指すものとなる。(感覚の単独性)