私の反省。
なぜ残虐性を持っていてはいけないかというと、それは心の弱さの一つだからであり、それを神の道にそむく人(もしくは霊)たちに利用される要素となるから。
その利用する良からぬ人の味方になってもいけないし、敵になってもいけない。
その残虐性がたとえ正義感の延長上にあるように見えても、正義感と残虐性は切り離して考えるべきだ。
もし敵がいるのなら、敵を倒すのではなく、敵の弱さを直観すること。
ここで「直観」と書いたのは、神(または高次霊)によって与えられる他動的な「直感」とは違い、自発的思考の中にある悟りの要素だから。
それにより、神の道にそむく人たちから見て、生理的に「こいつには勝てなさそうだな」と思わせる人間になること。
それが神的な処世術だ。
ただ気づくだけで、周りが変わる。
残虐性とは、一種の依存心でもある。
依存心は概ね、良からぬ他人に利用される要素となる。
良からぬ他人がなぜ良からぬことをしでかすのかというと、未成熟であるから。
自分は未成熟の状態に留まっていてはいけない。
そういう、何かに前進する観念は、持ち続けることだ。
なぜなら、それによって真の心の安定(幸福)が得られるようになるから。
引き寄せの法則は、ある。
だけどそれは、神から見て悪い理由で何かを引き寄せてはいけない。(逆に言えば、それすらも出来る力が人間には備わっているということだが。)
上記に述べたことは、悪い引き寄せに踊らされないための、神的な処世術である。
仏教のように、愛まで捨ててはいけない。
キリスト教のように、依存心を利用し合ってもいけない。
原理主義者にはならず、良いところは他宗教でも認め合うべきで、それが真の意味での原理主義者だ。
愛をもって、真の神的人間になること。
これが幸せの道である。
(キリスト教についてはよく知らないが、キリスト教の原初の元ネタを書いた人はこういう事を言いたかったのではないだろうか。あるいは、聖書を書いている人が、その最中に神や高次霊が介入した可能性もある。)
我々人間の中間目標は、高次霊になって人間をサポートする側に回ること。
私はこれを書いている最中、心が透き通るような気持ちになり、とても心地が良かった。