(そのうちFacebookに投稿するかもしれない記事)


ジョン・コルトレーンは1曲のジャズを作るにつき、平均13テイクほどを録っていた。
それは、彼の人生経験や芸術性からのその哲学的精神性からもだが、苦しみの中から生み出された音楽であり、砂漠の中から手のひら一杯の水を得るようなものだ。
いや、苦しみの人生から逃げるために、音楽という形而上の欲望へと只管に吸い寄せられていたのかもしれない。
彼は肝臓癌で早死にした。


一方、私は親の世話になりながら色々な分野の本を漁り、師匠の下で技術を教わり、嘱託社員の仕事で稼いだお金は、年金以外のほぼ全てを形而上への欲望へと費やした。
それは非常に充実していることだと思っていた。
鞄には常に本が3~4冊入っており、今はボードレール散文詩と、ジャック・デリダの分厚い哲学書、気象光学、フランス語単語帳を持ち歩いている。
仕事のない日はほぼ喫茶店に行ってそれらを読むし、移動の電車内でも読むし、夕飯後に実家のマンションの共用ラウンジでも読むし、部屋の中で夜な夜な読むこともある。
仕事の拘束時間自体はあまり長くないため、仕事後にも喫茶店に寄って読む。
しかし、その代償としてタバコとカフェインに依存し始め、慢性胃炎を抱えながらも1mgのタバコを吸い続けており、相変わらず喫茶店に通い続け、カフェインのないデカフェを注文して吐かないようにしている。
(家でカフェインを飲む場合はすぐに横になれるので、気持ち悪くなることはないのだが。)
なので私は、いくら形而上への欲望に惹かれて至高の世界へと向かっているつもりであっても、それは結局、ジャンキーなのだと思ってしまった。


今、私はコロナではないのだが、毎年恒例くらいに起きている風邪を惹いており、それごとに一週間くらいをダメにしている。
昨日38.4℃あった熱は、今日は36.9℃まで下がっていた。
熱のある時は、あれだけ興味を惹かれた数学の本だって、見るもの嫌だから捨ててやろうかと思ったほどだ。


大事なのは、いくら形而上への欲望を掻き立てられるからといって、身体が答えてくれない場合もあるということ。

しわ寄せが身体にやって来る場合もあるということだ。
私はまだ形而上の欲だからこの程度の廃人で済んだものの、これが性欲や博打欲にすり替わっていたら悲惨な状況になっていたかもしれない。
好きなことをやっていても、身体(アバター)を壊すことだってあるのだ。


すごい人間になろうと思わなくても、自然な道のりですごい人間へとなっていく人の方が多いし、私自身もそのレールに乗っかっている気がしなくもない。
なので、すごい人間になろうとなんかしなくてもいい。
自分にとって普通だなと思うことをその都度普通にやればいい。
すごい人間になろうとした瞬間から自分が自分ではなくなり、生まれる前に魂の決めた道から外れてしまい、こうやって軌道修正されることになるから。


そういえばこのパターン、弊社の上司でもいた。
芸大を出て世界中を公演で回る声楽家で、確かにその歌は今でも上手かったのだが、一日にピース2箱を吸っていたため肺に穴が開いて声楽家を断念せざるを得なくなった過去を持つ人が。