A.W.ムーア「無限」、読了。

A.W.ムーア「無限」、読了。
版元は講談社学術文庫です。

 

まず、この本はアリストテレスの「現実的無限」と「可能的無限」の対峙から始まります。
現実的無限とはこの世界に実体として存在する無限のことであり、例えば「円周率の数字はどこまでも無限に続いていても、現実に円周率というものはある」といったことが挙げられます。
対して、可能的無限とは例えばゼノンのパラドックスに代表されるように「ある物を分割しようと思ったらどこまでも分割できる」といったものや「アキレスと亀」のようなものなどがあります。

 

(引用、p.45:ゼノンによって作られた「アキレスと亀パラドックス」)
友人の亀よりも二倍足の速いアキレスが、亀と競争しようとして、その際、自分よりも前の地点から亀を走らせたとしよう。亀を追い越す前に、彼は、亀が最初にスタートした地点に到達しなければならない。しかし、その時間に、亀は最初にスタートしたときのアキレスとの距離の半分の長さの距離を先に進んでいる。アキレスは、再び、その地点まで達しなければならないが、その間、亀はさらに前に進む。そうして、これが、「以下無限に続く(ad infinitum)」。
(引用、終わり)

 

それが後世には「形而上学的無限」と「数学的無限」という言葉にすり替わります。
内容はそれぞれ「現実的無限」が「形而上学的無限」となり、「可能的無限」が「数学的無限」となって、元の意味を拡張したものとなります。

 

例えば、ゼノンのパラドックスに、
「ある矢が一直線に放たれたとして、そのときの時間を切り取ってどこまで矢が進んだか距離を測るとする。しかし、時間を無限に分割していけば、矢の移動距離はだんだん短くなって行き、最後には矢は止まってしまうのだろうか?」
といったものがありますが、あれはライプニッツニュートンによって「微分」が発見されたことにより、
「無限に時間を小さくして行っても、矢には無限に小さい『速度』が存在する」
ことが分かり、矢は決して止まらないことが証明されたわけです。

 

そして、最後は著者がまたアリストテレスのいう「現実的無限は存在するが、可能的無限はこの世界においてあり得ない」という意向に回帰しながらもなお、「それでも、数学的無限は示される」という可能性を残したまま終わる内容でした。

 

*

 

さて、個人的にこの本の内容で最も驚いたことがあります。
それは、19世紀末頃に発見された「カントール対角線論法」です。
それは、「無限個の自然数の個数」よりも「無限個の実数の個数」の方が必ず多いということです。
同じ無限でも、順序があるのです。
ただ、この説は未だに怪しいと言う学者も存在しますが、それでもこれこそが「超限数学」の始まりとなったわけです。
この発見は正直、読んでいて腰を抜かすほどの衝撃を受けました。

 

そして、カントールはそこから考えが派生して、
自然数を全て数え終わったとき、その次に来る数をω(オメガ)としよう」
という決まりが数学界に誕生します。
そうなると、学者たち(主にカントール)によるある種の悪ノリが始まります。
ωからまた自然数を数えて行くと、ω×2になり、またそこから先にはω^ω(オメガのオメガ乗)となり、更に先にはω^ω^ω^ω...(オメガのオメガ乗のオメガ乗のオメガ乗の...)と無限に続きます。
そして、それされもが全てちょうど数え終わった所の次の数をε0(イプシロン・ゼロ)と呼ぶことにしました。
更には、ωのことを最初の無限順序数だとしてℵ0(アレフ・ゼロ)と呼び、最初の無限基数であるという概念を作りました。
この「基数」というやつは単に集合のサイズを規定するものであり、例えば太陽系の惑星の集合のサイズは基数9となります。
しかし、これが無限集合となると、全ての自然数Nを表わすものであり、だからこそℵ0となるわけです。
そして、全ての可算の順序数の集合、つまりは、全ての可算の順序数の最初の後続者である順序数が存在するはずであり、それは基数ℵ1となるわけです。

ちなみに、ℵ1はε0よりも大きく、簡単に並べるなら「ω(=ℵ0)<ε0<ℵ1」となります。

 

そのことが、カントール連続体仮説
2^ℵ0=ℵ1 (2のアレフゼロ乗=アレフ1)
へと繋がって行くのです。
この式は現在でもまだ仮説であり、証明されていません。

 

*

 

そして最後には、哲学の分野でこの本が終了します。

 

我々が今、「あらゆるものの集合」を考えたとします。
しかし、あらゆるものの集合の外部には、「あらゆるものの集合の集合」があると思えるわけです。
そうすると、「集合の集合の集合の...」と無限に続きます。
しかし、ヴィトゲンシュタインはこれを否定しています。
というのも、「集合の集合なんてものは考えることは出来ても、実際にはそもそも存在しない」からです。

 

我々はこの世界を見る時、この世界の広さが無限だと感じています。
しかし、我々はこの世界を有限にしか捉えることが出来ないわけです。
前者を「示されること」、後者を「語ること」と分けたのは、カントに影響を受けたヴィトゲンシュタインでした。
全体に有限性を持たせるのは、我々の意識なわけです。

 

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