今日は一日中眠れなかったので、午前中に寝て回復しようと思う。
あまりに眠れないので、「存在と時間」のWikipediaを読んでいた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93
そして、内容を理解するために、自分専用のメモを残した。
でも、何だろう。
私はドイツの哲学や文学や詩よりも、フランスの詩やエッセイの方がずっと好きだ。
ハイデガーは、生理的に受け付けない何かがある。
以下、「存在と時間」ノート↓
何で我々が存在しているのか?ということは漠然としか知らずに、我々は存在している。
だから、存在とは何なのか?と問うことから始めよう。
存在の問い:
・問われているもの=存在
・問いかけるところ=存在者
・問いによって求められたもの=存在の意味
「存在を問う」ということ自体を行っている張本人は、なぜ存在するのか?
その張本人のことを、現存在と呼ぼう。
その張本人の存在だけは、特別扱いなんだ。
なぜなら、問う前からすでにいるから。
(下記に理由を書いたが、)張本人はすでにそこにいるので、勝手に自分で「存在了解」を自給自足している。
用語の説明
・存在的=存在者がいることを前提とした考え方
・存在論的=存在者がいることそのものを問う考え方
現存在は、他のあらゆる存在者に対し、存在論的な優位がある。
それがさっき言った、「存在了解の自給自足」が原因だ。
その理由は、現存在を分析するための論理が、
・「全ての存在者の意味」に関する存在論の基礎を与えること
(例えば、主人公が野菜を指して、お前はピーマンだ!お前はキュウリだ!お前は俺の知らない野菜だ!と認識している。認識しているので、その野菜たちはすでに存在していることになる。)
・個人の実際の体験に則していること(実存論的分析)
でなければならない。
しかも、後者の論(実存論的分析論)は、個人の体験を語る主人公が存在してなきゃ話にならないので、存在的な根をもっている。
だから、存在的な根を持つ、その張本人(主人公)である私は、存在論的な優位がある。
じゃあ、「現存在」の意味が何となく分かったので、ハイデガー節と行こうか。
そもそも、この張本人の問いは、存在へと向かっている。
現存在は、存在へと向かっている。
問いかけるところ(現存在)は、問われるもの(存在)へと向かっている。
それはつまり、「前-存在論的存在」というものが、現存在には備わっている、ということになる。(問う張本人がいることは、当たり前なので。)
現存在は、自ら存在しながら、存在しているということを了解している。(問う張本人がいることは、当たり前なので。存在了解の自給自足。)
その理由(存在を了解していること)の基礎になっているものは、「時間」だ。
つまり、この現存在の、存在としての「時間性」というものがある。
その「時間性」というのを解明することによって、存在了解のかなたにある「究極的な時間」を、根源的に解明出来るのだ!
と、ハイデガーは言う。
以上が、序章だ。
…と、ここまでにしておこう。
そろそろ寝たいので。