レヴィナス「全体性と無限 第一部 A章」のまとめ
無限とは、「絶対的に自分の外部にある存在との関係」のこと。
本書では省かれているが、デカルト「省察」によると、無限とは神の思考・神の存在のこと。
無限とは、絶対的に他(た)なるものである。
デカルトは、「人間は、無限者であり無限の思考をする神には近づけない」と言った。
しかし、レヴィナスは「デカルトの言う神的な(無限の)思考をすることは、人間にも可能だ」と言う。
他に抑圧されないためには、その無限の観念が大切。
他者というのは、私とは同じ世界にいながら、私とは違う部分を持っているもの。
他者を受け入れるのは大事なことだ。
しかし、他者に抑圧されることはいけないので、自我も殺さないようにするべきだ。
人間が自分の意見を持って、本当の意味で他者に接近するなら、抑圧からは引き離されるのだから。
(スマホのメモ)
全体性と無限 第一部 A
形而上学的欲望=全く他のもの・絶対的に他なるものを目指す(郷愁で家に帰りたいのではなく、未踏の地に行きたい)
他なるものの他性は、出発点にとどまって関係への入り口になること。
私=自我である場合のみ、同と他の項は絶対的に関係の出発点になる。
自我とは、自分に起こる全ての事柄を通過して、自らの自己同一性を再発見することになる存在。
他なるものとしての私は、一人の他者ではない。
自我は、世界のうちに場所と家を見いだす。
(住むとは、身を保つ仕方そのもの。)
自我の様態(手法)とは、世界内でわが家に存在することで滞在し、自己同定すること。
わが家とは、依存しながら、あらゆるものが私の手の届く所にある状態。
同の様態とは、所有する可能性(他性を中断する可能性)。
同の自己同一化は、エゴイズムの具体性。
絶対的に他なるものとは、他人である。
君や私たちは、私の複数形ではない。
他は同と関わっているのに、同に対して超越的であり続ける。
同と他の関わりは、言語である。
言説において、私という(唯一的で原住する個別の存在者の)自己性にまとめられていた同は、自己から抜け出るのである。
他性が存在の中に生起するためにこそ、一つの思考・一人の自我が必要。
他性は、私を起点としてでしか可能ではない。
言説は、自我の実存のエゴイズムを断念することができない。
全体性の断絶は、この思考が範疇に逆らうとき。
思考とは、話すことに存する。
否定性とは家政的(エコノミック・孤独)な事実である。
例えば、労働は世界を変形するが、変形する当の世界を支えとしている。物質は労働に抵抗するが、労働は材料の抵抗から恩恵を受ける。抵抗は同の内部にある。
否定するもの・否定されるものは共に置かれ、体系を(全体性を)形成する。
富を欲する貧者は、自分の条件に逆らいつつも、各自の地平に結びつけられたままである。彼らが好む別の場所は、この地(現世)に由来している。
完全態を可能にする理念化は、限界への移行(超越)であり、絶対に他なるものへの移行である。
完全なるものの観念とは、無限の観念。
完全なるものの観念と無限の観念は、不完全なるものの否定には還元されない。(否定性に超越は無理。)
超越とは、私の現実とは無限に隔たった、ある現実との関係であるが、かといって、この隔たりがこの関係を破壊することはないし、同の内部の諸関係では生じるように、この関係がこの隔たりを破壊することもない。
認識する存在は、認識された存在の他性を尊重する。
しかし、観想はそれだけではなく、認識された存在の他性が消失するような形で接近する仕方をも意味する。
その際、認識する存在は、自分にとって他なるもので制限を加えてくるような何ものにも出会わない。
感覚(客観的性質+主観的情動)だけが、認識された存在から他性を奪う。様々な存在者が知解可能になるから。
存在論=諸存在の知解としての観想=他を同に連れ戻し、自由を奨励する→その自由は同の自己同一化→他によって疎外されることはない
観想は、自発性がもつ独断と恣意性を発見し、存在論的な営みの自由を問いただす。(恣意的な独断の起源に絶えず遡る。)
他人の異質性が私に還元され得ないことが、そして、私の自発性を問いただすことが、倫理の特徴。(倫理とは、他によって同が問い質されること。)
自由の究極的な意味は、同における永続性に由来しており、この永続性が理性である。
認識とは自由であり、この自己同一性を繰り広げていくこと。
認識とは、虚無を起点として存在を把握すること、もしくは存在を再び虚無に連れ戻すこと、存在からその他性を奪うことに帰着する。(照らすことで存在からその抵抗を奪うこと。)
他の同への還元が、他の無力化であり、他が主題もしくは対象と化すような、他が現れるような状態。
知こそが、自由の究極的な意味を保持する。
存在者が了解されるのは、思考が存在者を超越して、存在者の輪郭が示される地平で存在者に尺度を当てがう限りにおいてである。
(存在を起点として存在者に接近することが、存在了解であり、存在者を存在させる。)
自由は、存在への服従から生まれる。(人間が自由を手にするのではなく、自由のほうが人間を手にしている。)
主題化および概念化は、他の抑圧ないし所有である。(所有は他を肯定しはするが、他の自存性の否定の只中でそうするのだ。)
無限から分離され、無限を思考する自我に対する無限の超越が、無限の無限性そのものとなる。
(観念されたものと観念を分離する隔たりが、観念されたものの内実そのものをなす。)
無限は、絶対的に他なるもの。
超越者は、無限であるがゆえに、その観念から無限に遠い所に(外部に)ある。(対象を思考することではない。)
デカルトの無限の観念という概念が指すのは、思考する者に対して全面的な外部性を保ち続けるような存在との関係である。→しかし、異邦人が無限に隔たっていることの、複雑な構造を記述しなければならない。
異邦人=他者
欲望と善性は、欲望を停止するような関係を前提にしている。
顔=他者が私の内なる他者の観念をはみ出しながら現前する様態
他人の顔は、私に委ねる形態的な像と、私の尺度やその観念されたものの尺度に見合った観念を、たえず破壊し、そこから溢れ出る。
他人の顔は、自らを表出する。
存在者は、存在のあらゆる覆いや一般性を貫通することで、自分の形態の中に自分の内実の全体を開陳し、最終的には形態と内実の区別を撤廃するのである。(主題化が言説に転換することによって達成される。)
他人は、こちらがその他人に対して抱く印象を、常に超えて出てくる。
その超えたものを自我の収容能力以上に受け入れることは、無限の観念を持つことである。(教えられるという意味でもある。外部からやってくる教え。)
無限の観念から溢れ出る無限は、私たちの内なる自発的な自由を審問する。
無限は、この自由に命令を下し、自由を裁き、自由をその真理へと連れていく。
歴史は、様々な視点の持つ個別主義から解放された存在が現出するような特権的次元ではない。(人間たちの間の関わり合いであるのに。)
人間が本当の意味で他者に接近するとき、人間は歴史から引き離される。